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「役者みたいないい男に話し掛けられてしまいました。これをもらいました」
ようやくけいの所へ戻って来た奥の女は顔を上気させて興奮していた。手には梅の小枝を握り締めていた。一二輪花が開いた枝には七夕の短冊の様にカルタが一枚、銀糸で結ばれていた。
けいは奥の女に上の空の返事を返した。しかし奥の女が梅の枝を持っているのを見てはっとしてわれに返った。さり気無くカルタの金箔の裏貼りを返して表を見ると元良親王であった。
屋敷に帰っても書状を直ぐに開く気になれなかった。子がいつ部屋に入って来るかも知れなかったし、元良親王の歌から類推すれば書状の内容は切羽詰まった恋文であろうと思われた。今更と思った。夫の金四郎は五兵衛のことはもちろん隠し子のことも知らない。けいは今の暮らしを守りたいと思った。風の便りでは五兵衛は兄堀田一知の後押しもあって商人として大成功を収めていると聞いていた。娘も健康に育っているとのことであった。娘のことはともかく五兵衛のことはけいの中では過去の苦い思い出でしかなかった。正確に言えば、五兵衛の名に心が波立ったのではなかった。今の暮らしを揺るがす過去の突然の来襲に戸惑い恐怖したのであった。折りしも前年、金四郎は父遠山景晋の家督を継いだ。思ってもみなかった幕臣としての明るい未来が金四郎に開けたばかりであった。
けいが五兵衛の書状を嫁入り道具の文箱にしまい込んで逡巡している頃、深川佐賀町にある小堀屋十兵衛の店では、娘のともが代書屋弥次郎から届いたけいの受取書を手に取って食い入る様に見ていた。隣の部屋では父十兵衛が弱々しい寝息を立てていた。初めて見る母の手であった。慌てていたのであろう字に乱れが見て取れた。その乱れの一つ一つが生きている母親の息遣いの様に思われて胸が締め付けられた。
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