三十七段

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 遠山金四郎の正眼の切っ先は、ゆらゆらと定まらなかった。度重なる勝負が、金四郎の体から、平静を奪っていた。剣の勝負とは言え、大藩の主に、間違っても、怪我を負わせる訳には行かない。しかし、その不安は、藤堂和泉守と正対して、瞬時に消えた。と同時に、新たな不安が生まれた。生半なことでは、一本は望めないと知れた。和泉守に一分の隙も無かった。金四郎は、正眼から八相の構えに移った。八相は、最も攻撃的な上段の崩しで、上段を体力的に維持できない時に用いられる。確かに、それで、木刀の揺らぎは収まった。それでも、待てば待つほど不利になることに変わりはなかった。  藤堂和泉守は、正眼のまま、微動だにせず、打ち込む気配を全く見せなかった。それが最善であることを心得ていた。  「参る!」  金四郎は、堪り兼ねて、正面から打ち込んだ。影を捉えたと思った。  藤堂家一門は、眼を見開き、生唾を呑んだ。  金四郎の剣は、空を切り、和泉守の切っ先が、金四郎の喉元に突き付けられていた。  「参った!」  金四郎は、後退って、両手を床に突いた。  「遠山の疲れに乗じたまでじゃ。明日になれば、結果も変わる」  和泉守は、木刀を収めて、一礼した。  金四郎は、激しく頭を振った。  「邪剣と申す者もおる。藩主の剣として相応しくないと申す者もおる。されど、儂は、この剣が好きじゃ」  和泉守は、上座下座も構わず、腰を下ろした。  「邪剣などと、滅相もございませぬ」  金四郎は、和泉守の真意が読めなかった。  「儂の父は、立派な殿様であった。このご時世に、傾いた藩を立て直し、民にも慕われていた。それに引き替え、儂は、どうも、芳しくない」  和泉守は、自嘲した。  金四郎は、返す言葉が見付からなかった。  「その父が、この剣を褒めてくれた。儂のことを、藩祖高虎公の生まれ変わりに違いないとまで言ってくれた。それ故、儂は、この剣が好きじゃ」  和泉守は、一人の少年であった。  「左様でございましたか」  金四郎は、自分の父親を思い出していた。  和泉守は、小姓に目配せした。  小姓が、文箱を携えて来た。もう一人の小姓は、火鉢を抱えていた。  「中を改めよ」  和泉守は、金四郎に、文箱を下げ渡した。  金四郎は、偽の将軍家世継ぎの書状を確認した。  「大儀」  和泉守は、木刀を小姓に預けて、すたすたと道場を後にした。  金四郎は、後ろ姿に額突いた。
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