初段

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 代書屋弥次郎の店は江戸日本橋小網町一丁目にあった。三方を水路に囲まれた半島の様な街の突端が小網町一丁目であった。手紙、三行半、請求書、始末書、念書、経文、果し状、脅迫状、はたまた文字に限らず家系図、曼荼羅、大和絵、唐絵、西洋画に至るまで、およそ紙に書くもの描くものなら贋作、創作の区別無く何でも引き受けた。  飛び抜けて評判であったのが恋文であった。書体文体ともに優美で送り手受け手の身の丈に合わせた表現は自在で人気が高かった。男女を問わず朝から晩まで引き合いがあった。しかし代書屋弥次郎の人気を不動のものにしていたのはそんな腕の確かさだけではなかった。  「どなたにでもお届けいたします」と店の軒下に吊るされた看板には墨痕鮮やかに書かれていた。  恋文を代書屋に頼んでそれを自分で届けるのは何とも間が抜けている。知り合いに頼めば秘めた恋が台無しである。相手がどこの誰かも分からないこともある。そんな難題を全て一括して解決してくれるのが代書屋弥次郎のお届け奉仕であった。多少値は張るが少々の無理は聞いてくれる。それこそが代書屋弥次郎の人気の秘密であった。  「将軍様にでも届けてくれるのかい?」  客が看板を見て軽口を叩く。将軍とは徳川家斉のことであった。人々は将軍をもう畏れてはいなかった。大政奉還まで数十年。清盛頼朝が灯した武家の業火はどす黒い煤と共に最後の輝きを見せていた。  「それは命懸けの恋になりますぜ」  弥次郎は筆を手にしたまま文机から顔を上げもせずに決まってにやりと笑う。歳の頃なら三十路くらいか。色白の優男である。髪は烏の濡れ羽色で少し乱れたところが彼の生きて来た道程を暗示している様であった。しかし身の熟しもがさつなところが無くどことなく人をゆかしい気持ちにするのであった。  幕府の威勢もめっきり衰え、その幕府を有らしめているのはだだの惰性でしかなかった。海の向こうからは今にも不穏な黒雲が押し寄せようとしていた。人々は言い様の無い不安に駆られていた。人々はこの世の享楽に不安の捌け口を求めていた。色恋は何にも増して重要であった。それが証拠に将軍が先頭に立って歓楽に興じていると人々は受け止めていたのであった。そんな時代に恋文の弥次郎は息をしていたのであった。
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