九段

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 遠山金四郎の妻けいは正月と言うのに浮かない顔をしていた。初詣から帰った奥様のこの様子に気付いた奥の女たちがさっさとけいを「人酔い」と称して病人に仕立て上げて寝所に隔離してしまった。主の金四郎は暮れも正月も無く小納戸として城に出仕していた。それはある意味気楽と言えば気楽であった。主が留守である限り、けいがいなくても家事は粛々と回って行くのである。亭主元気で留守がいい。それでも子沢山であった。金四郎との暮らしは想像より遥かに幸せであった。  子を連れて初詣に向かっていた時のことであった。男の子は愛宕神社の出世の石段とも呼ばれる男坂を好んで上って行った。けいは女坂を選んだ。女の子も従った。人混みに圧倒されて坂の上の茶屋でけいは一休みした。女の子は先を急いで従者と行ってしまった。けいのために一人残った奥の女もちょうど用足しに側を離れていた。  「西野五兵衛様から言付かり物でございます」  見知らぬ男が人波からするりと現れて膝を地面に突いて紅白の袱紗に包んだ書状をけいに差し出していた。男は町人で小ざっぱりとした身なりは正月らしく華やかで帯には梅の花が一枝挿してあった。書状の上包みは桃色の紙で大きさは普段使いの物より一回り小さかった。容易に忍ばせられることを考えての大きさであった。  五兵衛の名を聞いてけいは驚愕した。黒目が開いた。封印した記憶が溢れ出して来た。けいは自分自身が忘れていないことを思い知らされた。急に人目が気になった。狼狽を隠せず書状を受け取った。やはり紅白の筆と金を散らした巻紙を差し出す男の求める儘にけいは受け取りを書いた。混雑が幸いしてけいに注意を向けている者は誰一人いなかった。奥の女もなかなか戻って来なかった。けいが周囲に気を取られている間に男は消えていた。梅の香だけが残っていた。書状は直ぐに着物に潜ませた。
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