九段

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 母親は産後に亡くなったと聞かされていた。そのことを除けば何不自由無い生活を送って来た。本人がそう思うのであるから間違いは無かった。父親の言葉を疑ったことも無かった。  江戸に店を持ちたいと言い出したのはともであった。年頃になり江戸の華やかさに憧れたのであった。正直、江戸に店を構える必要は無かった。親子暮らして行くには小堀の店だけで充分であった。それでも江戸に店が有れば商圏を一気に西国に拡大できる可能性も秘めていた。しかし江戸には江戸の流儀があり商売を続ける上で細心の注意を払わなければならなかった。水運の世界には金だけでは済まない障壁があったのである。小堀屋は少し急ぎ過ぎた。目出度く江戸に店を開いたその日に十兵衛は刺客に襲われ瀕死の重傷を負ったのであった。若き日の五兵衛としての剣術の研鑽が無ければその場で殺されていたであろうと十兵衛は思った。  医者は玳瑁を受け取りながらも苦虫を噛み潰した様な顔をして帰って行った。薬研堀辺りに刀傷の専門医がいるらしく紹介状を置いて行った。  「万が一のことがあれば母上様を頼りなさい」  十兵衛は声を絞り出した。体に巻かれた晒は血に染まりさらに寝巻から布団に染み出していた。  「母上様?」  ともは十兵衛の手をぎゅっと握り返しながら、十兵衛の言葉がまるで異国の言葉の様に理解できなかった。頭が真っ白になった。  十兵衛はともが落ち着くのを待って、包み隠さず自分の知る限りの真実を話した。  ともは十兵衛の口に耳を寄せ目を見開いていた。父親は目の前で瀕死である。しかし母親が生きている。不安と期待が綯い交ぜになってともの心に渦巻いた。  「これから言うことは父の遺言と思いなさい。信を置くべきは母上様と堀田のお殿様だけじゃ。その他は誰も信じてはならぬ」
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