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日本橋箱崎から大川に架かる永代橋を渡ると深川佐賀町の辺りである。永代橋は五代将軍綱吉の齢五十を祝って渡された木橋である。それから百年以上経過したある年、深川八幡の祭に押し寄せた人々の重みで橋が落ち大惨事になった。幕府はそれまで永代橋の維持管理を町方に押し付けて放棄していた。事故をきっかけに下々から強く非難された幕府は手の平を返して大盤振る舞いで永代橋を架け替えたのであった。新しい橋は深川と日本橋に一層の活気をもたらし、架け替えの費用など十年で取り返すことができたとのもっぱらの噂であった。
佐賀町は大川左岸に面していて、その地の利を活かして米蔵や酒蔵が立ち並んでいた。米俵や酒樽を運ぶ荷役人夫や馬、大八車が通りには溢れていた。人夫の懐を当てにした店や露天商が街に散りばめられていた。大半の人夫は店に奉公人として入っているのではなく仕事のある時に手配師や請負師と呼ばれる者から米蔵、酒蔵に派遣されて仕事をする。人夫に仕事を斡旋するのが手配師、仕事を請け負い人を集めてそれを熟なすのが請負師であった。この手配師や請負師は少なからず侠気の世界に生きていた。小堀屋十兵衛が襲われたのもその辺の根回しの不足に原因があることはこの町では公然の秘密であった。
深川小堀屋はそんな街の一角にあった。店の目の前は大川で小堀河岸はおろか全国に繋がっていた。相場で破産した米問屋の建物を十兵衛が人伝に手に入れたのであった。深川小堀屋の主な荷は米であったのでそれは好都合であった。町では新参者のために船頭と舟だけが自前で荷役人夫は地元の手配師を利用した。相当に気は遣っていたのである。
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