十一段

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 遠山金四郎の妻けいは朝一番に弥次郎の店を訪ねた。受け取った恋文に「代書弥次郎」とあったのが手掛かりであった。  「いらっしゃいませ」  店に独りいた弥次郎と思しき男は既に催促状の準備で大忙しであった。けいを構う気配さへ無い。陽が昇る前には魚市場から大量の帳面や書類の束が雑然としたまま持ち込まれていたのであった。店は一気に魚臭くなっていた。香も追い付きはしない。  男は帳面の類を辺り一面に広げて整理していていた。  「お邪魔いたします」  けいは自分の挨拶通りの状況だと思った。店の框に腰掛けて半時待っていたが男の手が止まる気配が無いので一旦引き上げた。座布団も茶も出なかった。翌日も朝一番にけいは店に現れた。男は前日と違って筆と巻紙を手に一心不乱に催促状を書いていた。雨が一旦降ったが直ぐに止んだ。男の手が止まりそうにないのはこの日も同様でけいは半時待って引き上げた。次の日の朝同じ頃けいが店の軒を潜ると前日前々日と仕事の手を止めなかった男が既に居住まいを正して待ち構えていた。店の魚臭さは消えていた。男は昨日までは会津木綿の着物であったがこの日は大島紬であった。  けいは「おや」と思った。まだ嫁入りする前に兄堀田一知の許に薩摩藩士が夜な夜な訪ねて来たことがあった。松平を名乗っているとは言え外様とあからさまに交流することは幕府防衛に携わる兄にしては大胆だなと感じていたが、今思えば、当然幕府の許しを得ていて、海外の新式の銃や大砲の情報交換、悪く言えば情報戦を行っていたことは間違い無いのである。その薩摩藩士が着用していたのが大島紬であった。それ以来、けいも愛用していたが、嫁入りしてからはとんと縁が無いのであった。夫遠山金四郎は今でこそ家督を継ぎ役にも就いて収入が安定したが、ほんの数年前までは部屋住みで、あくまでも居候に過ぎなかったのである。もちろんけいの実家から何かと援助はあったが子沢山もあり大島にはとんと縁が無くなってしまったのであった。
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