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「宜しくお頼み申します」
けいは現れた時より少し柔和になった面差しでそう言い残し弥次郎の店を後にした。
夜半に降った春雨は店の目の前の日本橋川を増水させるほどではなかった。それでも雨水が緩めた通りの土を荷車が捏ね泥濘に轍が幾筋も刻まれていた。けいはそれらを避けながら何度も足を止めて振り返ってはその度に弥次郎に礼をした。
「確と承りました」
弥次郎が表まで客を見送りに出ることは珍しかった。
本石町の時の鐘が捨て鐘を打ち始めた。江戸に暮らす者なら鐘が鳴り終えるのを待つまでもなく四つと分かる。けいとはかれこれ一時ばかり話していたことになる。商いの上での秘密は厳に守りながらも三顧の礼を尽くしてくれたけいにもでき得る限りのことをしてやりたいと心底弥次郎は思っていた。
表に駕籠でも待たせているのかと思ったが出て見ると付き人さへけいを待ってはいなかった。かつては四千二百石の大身旗本の姫で大名家に輿入れの話さえあったけいが供も無く足許の泥濘を気にしながら歩いている。なお一層親近の情を誘った。けいの姿が見えなくなるまで弥次郎は店の前に立っていた。
「おい、弥次郎さんが人を見送ってるよ。こりゃまた雨が降るぜ」
ちょうど商売を終えて戻って来た棒手振りが冷やかした。
「嫌なところを嫌な奴らに見られちまった」
弥次郎は苦笑しながら店に消えた。
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