十二段

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 棒手振りは天秤棒を担いで魚市場を基点として鮮魚が傷まない間に売り歩ける範囲で商売をする。鮮魚の足の速さは季節によっても変わるが棒手振りの売り物は鮮魚だけではないので鮮魚が売れない夏にも仕事はそれなりにあった。江戸の街の隅々で棒手振りが見聞きしたことは魚市場に噂として集まってくる。もちろん愚にもつかない噂がほとんどであるが中にはきらりと光る情報もあった。おそらく弥次郎が「妙に艶っぽい」武家の大年増を姿が見えなくなるまで店の前で「随分と未練たらしく」見送っていたと言う愚にもつかない噂が魚市場辺りで早速卸されるのである。それを思うと弥次郎の表情は曇るのであった。  小堀屋十兵衛が襲われた時も魚市場で一頻り噂になった。下手人の人相風体、人数、逃げた方向、さらには裏で糸を引く黒幕の目星が魚市場を飛び交った。それがある時ぷっつりと話題にならなくなった。その直前に事件の黒幕として名を挙げらていたのが深川の元締めであった。  人の噂も七十五日。確かに噂が消えたのはちょうどその頃であった。しかし噂を掻き消したのは時の流れなどではなく魚市場の魚定の親分であった。大川を挟んで隣同士の比較的仲の良い親分の名が黒幕として魚市場で囁かれたのである。そこは魚定としても箝口令を敷かざるを得なかったのである。深川で棒手振りが商売できなくなっては元も子もないのであった。  魚定がならぬと言ったことは魚市場では絶対ならぬのであった。もし破れば二度と魚市場には出入りできない。例えそれが将軍であっても一歩たりとも入ることはできないと言うのが魚市場の自負であった。それは決して虚勢ではなかった。
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