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深川の元締めの本拠は永代寺門前町にあった。永代寺と言うとぴんと来ないが神仏混淆の時代であれば深川八幡を指すと思ってよい。百年ほど前には紀伊国屋文左衛門が住んだと言われる一の鳥居の辺りから東に向かう八幡様の参道沿いには茶屋、料理屋が隙間無く並んでいた。蜆、蛤、牡蠣、鰻が名物と決まっていたので自ずと街の匂いは腸に沁みるものであった。
深川は埋立地である。深川の街が江戸に生まれ出る過程の始めに既に登場していたのは漁師であった。江戸湾に続く湿地帯に漁村があった。深川名物を見ればそのことが腑に落ちる。そこへ徳川幕府の旗振りに応じて湿地や海を埋め立て進出して来たのが商人であった。大川と海の接点は都市江戸を支える物資の集積に適していたのである。埋立地は農産物の生産地にもなった。江戸の都市化を支えていたのが埋立地であったと言っても過言ではなかった。特に材木と米は江戸の富の象徴であった。その二つが深川を目指して集まって来るからくりであった。深川に根付いた商人の多くが豪商と呼ばれる様になるのは自然の流れであった。米を生活の便としていた武家も商人の後を追う様に屋敷を構えた。
八幡様がお出でになったのはかなり早目であった。お招きするには豪商の力が大きかった。明暦の大火が深川の埋め立てを加速させた。明暦以降は江戸に溢れていたごみを使って埋め立てが進められ都市環境問題の解決にも埋立地は寄与していた。大川と江戸湾と縦横に配された掘割水路が一層の強みとなり深川は無くてはならない物流の要衝に発展した。仲士、馬子、船頭、川並、駕籠かきがそれぞれの持ち場で物流と交通を支えていた。物流に携わる人々を纏め動かしていたのが手配師、請負師であった。深川から本所辺りまで大小の様々な手配師、請負師を束ねるのが代々の深川の元締めであった。さらに元締めの影響力はそれに止まらなかった。
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