1 記憶の泉

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1 記憶の泉

 チョットマが出て行ってから、生駒は知人に連絡を取った。  サリという女性兵士について、詳しく知りたいと思ったのだった。 「わかるかい」 「ん? 成功報酬だ。金額は内容による。その時点で、こちらの言い値を支払ってもらう」  相手は、いつものようにぶっきらぼうだったが、探してくれるだけでも儲けものだ。  サイバー空間で調査会社をやっている男で、生駒は勝手に、単に探偵さんと呼んでいる。  生駒が入り込めない政府のデータベースにアクセスできるのか、あるいは性能のよいネットワークを構築しているのかわからないが、たいていは数日後にはそれなりの報告をしてくれる。  生駒が普段頼む調査は、探し人のようなことではない。趣味の世界のようなことで、たとえば西暦二千三十一年八月八日の大阪梅田付近の航空写真のありか、などだ。  探せば生駒自身でも、いずれ見つけることはできるのだろうが、サイバー空間に溢れているデータ量が膨大すぎて、簡単なことほど見つけにくいのである。  年齢は。性別は。本名は。出身地は。瞳の色は。人種は。  などと探偵は聞いてくるが、どれも知らないと答えるしかない。  ニューキーツの街に住んでいる兵士で、街の東部で消息を絶ったということだけ。  性別さえも、たぶん女だというだけだ。  人種という言葉は昔は肌の色で区別をしていたが、今は人間としての生まれ方で区別をしている。兵士であるということは、再生人間か再生人間から生まれた子である可能性が高い。 「あまり期待するな」  という言葉を残して、探偵は通信を切った。  生駒は自分の意識を二つに分けた。  ひとつは人の姿をとって面会者用にスタンバイさせ、ひとつは精神のまま移動用チューブに放った。  出かけるときは必ず、意識を複数個用意しておかねばならないきまりだ。  移動用チューブの実態はビジュアルだけのもので、移動していることを実感する以外に用途はない。  生駒は移動用チューブを出ると、宇宙空間に伸びている光の柱に入った。  数秒間はエレベーターのように上昇していくが、それも同じことだ。エレベータの窓からは、みるみるうちに青い地球の輪郭が見え始め、宇宙の暗さを実感する。  上空には巨大な円盤の底が迫ってくる。  円盤はまるで光の柱に支えられているかのように浮かんでいる。  この絶景もリアルタイムモニタだが、違和感はまったくない。  「英知の壷」と呼ばれる静止衛星。  それは、光と宇宙線のエネルギーを受けて、建造後六百年ほど経った今も稼動し続けていた。  約十平方キロメートルの広さを持つ円盤。  人類の記憶を留めた無限の集合脳。  そして人類の食料生産基地の機能を併せ持つ。  地球人口三億人の命の源。  高度二千キロの地球周回軌道に散らばる四十八個のもうひとつの大地。  と、いわれていた。  円盤下部は地球と光のエネルギーを交換する面で、びっしりと受光板が敷き詰められているが、上部は金属製の建物で埋め尽くされている。  以前、あらゆる食物はここで人工の水を使って生産されていた。現在、その重要度は低下したが、役割そのものに変化はない。  太陽の陽を浴びて光だけはふんだんに降り注いでいるが、それ以外はすべてここで作られたものだ。  かつて無重力体験を遊んだ観光客の姿はなく、守人たちの姿さえ消えた。  すでに生あるものはなにもいないといわれていた。  生駒は、その英知の壷のひとつ、ジェーピーエヌの景観を眺めた。  建物外に大気はなく、空は暗く星が瞬いている。  巨大な満月が、青白い光を放って東の空に掛かっていた。  隙間なく建ち並ぶ工場群の壁は、極寒の中で光を反射し白く硬い光を放っていた。  生駒はよくこの円盤にやってくる。  地上にいても同じシーンを見ることはできる。同じように考えることもできる。  事実としての記憶と、それと対をなすその時の心の様相はデータ化され、古びることなくいつでも引き出してくることができる。  この円盤に来たからといって、自分の思考に変化があるわけでもないし、深まるわけでもない。  しかし、あらゆる記憶が本来はまとっているだろう感傷的ともいえる味覚や匂いが、自分の脳の機能そのものが保管されているこの場所だからこそ、強く感じることができると思うからだ。  円盤の中央部、建物内のコリドールの先に、目的の泉はある。  泉の水はどこまでも深く青く澄み、鏡のような水面に自分の顔がくっきりと写っていた。  生駒の意識は、泉をゆっくりと沈んでいく。  まるで重力がそうさせるかのように。  脳裏に浮かんだひとつの光景。  それは生駒がかつて体験した光景。  記憶に残る一片のフォトグラフィ。  見つめていると、たちまちその光景は脳裏を離れ、体を包み込む。  意識は自我を離れ、その光景に誘われるように、記憶の元となったその瞬間に立ち戻っていく。  あたかも生まれ変わったかのように、その体験を繰り返すのだ。  寸分違わぬあの体験を。  生駒がこの円盤に来て見つめなおすことが習慣になった記憶。  それは、このシーンから始まる。  強い光が溢れていた。  昼なのか夜なのかも分らない。  巨大な光の束が大気を突き破り、宙に向かって突き立っていた。  なだらかだが石ころだらけの丘陵が続く、その先に。  光の束。  英知の壷が消費する膨大なエネルギーを、地上から送り込み続けている。  その中心に向かって、グネグネと折れ曲がった小道が丘陵地帯を巡っていた。  人影が見えた。  ふたつの長い影。  岩肌を移動していく。  年老いた男に、数歩遅れて続く女性の姿。  それは、はるか昔の自分自身の姿。
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