2 記憶の駅

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2 記憶の駅

  そして記憶は、その数日前に遡っていく。  車窓には単調な白い景色が広がっていた。  ここ数年、日本に雪が積もるということはなくなっていたが、今年は例外で、関西でも時折雪が舞った。  この雪景色が隠しているもの。  大地の様子を、生駒は知っていた。  生駒が知っていただけではない。日本中の誰もが知っていることだった。  かつての豊かな田園地帯と陽光溢れる街々。多くの観光客を集めた著名な温泉地。  そういう郷愁を生む風土だけではなく、道路も信号機も、家々も、そして人々の姿も、何もかも、雪が覆っていた。  サンダーバード号は、特急列車とはお世辞にもいえないギクシャクとした動きで、ノロノロと雪を掻き分けつつ北陸の地を進んでいた。  生駒は、前に座った綾の顎の辺りを見つめていた。  横顔に夕陽が当たっている。  痩せた頬。  美しい顔立ちに似合わない、がさついた肌。  長い髪は健在だが、少女の頃の艶やかさはもうすでにない。 「雪よね」  大阪から列車に乗り込んでから、はじめて口を開いた綾は、目の前に広げた食べかけの弁当に蓋をした。 「ああ、珍しいね」 「おじさんとの旅行も、これが最後になるのかな」  生駒はなにも応えることができなかった。  最後……。  そうかもしれない……。 「死にやしないよ」 「うん」 「何しろ相手は、女神なんだから」  女神という言い方に、綾は久しぶりに目を合わせて、少し笑った。  もう、どれだけ話し合ったことだろう。  この旅は、自分が行かなくては。いや、自分のための旅なのだから、と主張し続けた生駒。  私の出した結論に、自分で決着をつけたいという綾……。  三ヵ月間、準備の傍ら、その議論は膠着し、こうして二人して日本海に沿って北上している。    列車は加賀を過ぎた。  もう何年も前に無人化された列車に、到着駅のアナウンスはない。  そもそも、このあたりになると、乗客は数えるほどしかいない。二人が乗る車両にも他の人影はない。  窓の外の景色が、微妙に変化し始めていた。 「ほら、見て」  綾が久しぶりに声をあげた。 「雪が」  深く降り積もり、白一色だった雪原に変化が起き始めていた。  家屋の残骸が垣間見えるようになっていた。時折、かつては田園であったと思しき地形が見えたりする。  雪解けのように、斑に。  山の緑が濃くなったようにも感じる。  そして、陽の光が少し強くなったようにも感じた。 「こっちは暖かいんだ」  終着駅、金沢まで後四十キロほどだろうか。  金沢駅。  日本中、どこの町もそうだが、しんと静まり返っていた。  プラットホームにもコンコースにも人影はない。改札さえも、無人だ。  駅だけではない。  街中に、動くものの気配は感じられなかった。  かつてはあれほど賑やかだった大きな天蓋のある駅前広場には、崩れかけた数台のバスや車が放置されたまま。  もてなしドームと呼ばれた門や、歩行者通路の屋根のガラスはすべて割れ落ち、骨組みだけとなっていた。  それさえも錆び付いて、薄暗くなりかけた空に白い残骸を晒すのみである。  店という店、ビルというビルはシャッターを降ろし、あるいは略奪の跡を残したまま、既に廃墟と化していた。  雪は全く積もっておらず、むしろ蒸し暑いとさえ感じた。  ただ、空だけは冬空らしくどんよりとして、今にも振り出しそうな雲行きだった。  ただ天空の一点を除いて。  生駒は駅前広場への階段を下りようとはせずに、街の様子を観察した。  大通りを遠く、ぼろをまとった人間がふらふらと横切っていくのが見えた。  コンコースへ戻った方がいいだろう。  自分は老人である。連れは女。  この街の住人に好奇の目で見られて、良いことが起こるとは思えなかった。  今晩は、コンコースの人目につかないところで眠ることになるだろう。 「どこに行くのか」  唐突に呼びかけられて、生駒は思わず躓きそうになった。  綾が生駒のコートの影に身を隠そうとした。  そのまま逃げ出したい衝動に駆られたものの、体が自然と振り向いた。 「聞こえないのか。質問している!」  戦闘服に身を包み、武器を携えた男が二人立っていた。 「……」  若い兵士がゆっくりと軽機関銃を水平に構えるのを、上官らしき方が押し留めた。 「我々は、陸上自衛隊中部方面隊金沢駐屯地のものである。改めて聞く。どこに行こうとしているのか」  生駒は肩の力が抜けた。少なくとも、この男達は自分達に危害を加えるものではない。  しかし、生駒は嘘を言った。 「故郷なのでね」  この街の住人ではないことは、この自衛隊員の目に一目瞭然なのだろう。  自分達を誰何する目に、強い不信感が表れている。  本当のことを話したところで、理解してくれるとは思えなかった。  むしろ、自分達の目的を阻まれることは目に見えていた。 「観光に」  この街に、なんと似つかわしくない言葉だろう。  見え透いた嘘に自衛隊員が納得するとは思えなかったが、それ以外にいい言い訳は思いつかなかった。
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