隠された、自分

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静かな住宅街の朝。 スーツを着、右手にバックを持つとドアに鍵を掛けた。 「…いってきます」 ―隠された、自分― 朝の日差しが眩しく、空気がまだ静かな朝。 天候が変わろうと、四季が巡ろうと、変わらない日常がある。 「おはようございます」 「あら御代さん。おはようございます」 サラリーマンとして40年近く過ごした私は、もう定年間近なおやじだ。 長年同じ時間、同じ道を通っているため、ご近所さんへの挨拶は欠かさない。ご付き合い…とでもいうものか。 …いや、どちらかと言えば、近所付き合いと言うよりも、日課に近い。 日課をこなし、私の足は意思としなくても会社へ向かう。 今日も社会に揉まれるのだ。 「はぁ…」 「どうした、御代」 「いや、なんでもないよ。」 「そうか。ぁ、ちょっとこれ見ろよ、先週孫が産まれたんだ。どうだ、可愛いだろう。」 私の同僚の喜多見はそう言うと慣れた様子で、指先で拡大した孫の画像を見せてきた。 チクリ… 「…あぁ、可愛いな。」 こいつは未来の世代に己を残す事が出来たのだな…。 そう思うと胸がチクリと痛んだ。 「そうだろう、そうだろう。名前はな嬉鞠(キマリ)っていうんだ。なー嬉鞠ちゃん。」 弛んだ顔の喜多見をチラリと見ると、私は窓ガラスの向こう側に目線を移した。 ―…私には、未来がない。 『ならばもう一度、チャンスを与えようか』 「っ!?」 私の耳に少年の声が聞こえた。 キョロキョロと当たりを見渡すが、それらしき声を発する人物はいない。 「どうした?」 「今、声聞こえなかったか?子供のような声。」 喜多見は怪訝な顔をした。 「…いや、してないぞ?怖いこと言うな…。お前も年だから、耳悪くなったんじゃないか?」 「そうか…な…」 だが確かに私には聞こえた…。 「…」 耳に入る音はキーボードを叩く音、飛び交う社員の声、コピー機、電話の呼び鈴…。 やはり私の聞き間違いか…空耳だったか。 不思議に思いながら、私は今日も昨日と同じ作業をした。
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