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「ここの主人は話が分かるし、すごく優しい人だから。きっと大丈夫だよ」
ここの主人のところに行ったらしい佐野と、彼についていった高峰の言葉を聞く。
理羅は、何が大丈夫なんだろうと思った。
そもそも、何のために来たのだろう?
ついてこい、とは言われたけれど、理羅はまだ何も頼んではいない。
携帯の充電器を貸してくれるのだろうか?それとも一泊させてくれるのだろうか?
どちらにしろ随分図々しい。
「……紅」
「はい?」
門をくぐり寺の敷地内に入る。
土方が自分の部屋にでも戻ったのか、斎藤と2人きりになると、突然斎藤に腕を引っ張られた。
甘く香るにおい。温かく大きな何かにつけて包まれた身体。耳に掛かる吐息。
抱きしめられている。
驚いて斎藤を見ると、何かを言いたがっているような、堪えているような顔で理羅を見ている。
そんな表情をされて腕を振り払えるほど、理羅は薄情ではなかった。
斎藤の考えていることはさっぱり分からない。それでも振り払ってはいけないんじゃないかと、それだけは分かっていた。
そんな理羅に気付いたのか、斎藤はふっと微笑んで、理羅にしか聞こえない程度のボリュームの声で言う。
「……俺は覚えている」
「!」
それだけで、理羅は斎藤が何を言っているのかをすべて理解した。
斎藤には、幕末の頃の記憶があるのだ。
「斎藤…一、さん?」
「……ああ、そうだ…『理子』」
「…っ!!」
斎藤が微笑む。とても優しく、穏やかな笑み。安心できる笑顔。
それは理羅が幕末にいたときに何度も見た斎藤の笑顔そのものだった。
『理子』。
それは理羅が幕末にいたときに名乗っていた名前である。
「…覚えててくれたんですね」
理羅がそう言って斎藤に身体を預ける。
斎藤から聞こえてくる心臓のトクン、トクンという一定のリズムが、理羅を安心させた。
仲間だった人たちに、自分の存在を忘れられ。すごく辛くて、そして悲しかった。
誰?と邪気のない声色で訊かれる度に、慣れるはずのない、慣れることのない痛みが襲ってくる。
何度も、苦しくて泣きそうになった。
でも、泣けなかった。泣いたところで何も変わらない。
ただ、相手を困らせるだけの行為だから。
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