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それは、晴天の最中に訪れた通り雨だったのかも知れない。
はたまた、不意に石ころに躓いてしまうような、些細な不運だったのかも知れない。
そんな風に、後になって笑い飛ばせるアクシデントであったなら、何と良かったことだろうか。
彼が今、自分の身に降りかかった災厄を思い、そんな刹那的な思考に身を委ねてしまうのは、仕方の無いことだった。
月が上りかけた茜色の坂道を、男は息を荒げて走っていた。
背後を確認するも、誰もいない。
だが、確実に〝それ〟は存在するのだ。
「なんだよ、なんだってんだよ!」
半狂乱になりながら、男が叫ぶ。
助けを求めて上着を探るも、パニック状態の中では求めるものもなかなか見つからない。
零れ落ち、大地にばらまかれた名刺には『中野芸能事務所・高川栄一』と書かれてある。
苦労に苦労を重ねて掴み取った天職。
だが、そんな夢の欠片を拾い集める余裕すら彼にはないのだ。
なんとか懐から携帯電話を探り出し、適当な友人へダイヤルする。
しかし返ってきたのは、あまりにおぞましい声だった。
「ねえ、どこいくの? どこいくのどこいくの?」
それは無邪気な女の子のような、甲高い声。
しかし、どこか狂ったイントネーションと、まるで鈴を振り続けているような抑揚のない声色は、明らかに異常だった。
「ひぃぃ!」
男が悲鳴を上げて、携帯電話を地面に叩きつける。
しかしその声は、男を決して逃がしてはくれなかった。
「どーこかな? ねえ、どーこかな?」
携帯電話は投げ捨てたはずなのに、声だけはどこからか響いてくる。
もはや、男の瞳に正気は感じられない。
ただただ、得体の知れない声から逃れようと足を動かし続けるのみだった。
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