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22 ネムの木陰で
外で待てといわれても、集会所の玄関のベンチには難しい顔の警察官が立っていて、居心地のいいところではない。
生駒は集会所を出た。刑事の目があからさまに背中を追ってくるのを感じる。まだ数人の村人が集会所の前にたむろしていた。仙吉もまだ井戸の脇で佐古と話し込んでいる。
生駒は肩をすくめてみせた。仙吉がこわばった笑みを寄こし、集会所に目をやったが、窓にはカーテンが引かれていた。
「西脇さんはまだ?」
「奥さんに聞いたら、一旦は家に戻って、恭介の立ち回りそうなところを捜しに出たそうですが」
「なんとなく心配ですね」
と、とりあえずは言ったものの、恭介が気になっていたわけではない。健治の死の原因がはっきりしない今、漠然とした不安が村全体を覆っているように感じて、それを口にしたまでのことだ。
「いったい、どうしたっていうんや」
仙吉がいらついた声を出した。
ふと仙吉の視線が生駒の背後に向いた。
振り向くと、老婆が歩いてくる。
近づくにつれ、老婆の目が仙吉と生駒と優を順に見ていった。
「奈津さんです」と、仙吉が小声で教えてくれた。
「彼女も事情聴取?」
「はぁ、一応は。でももう歳ですんで、簡単に済ませたようです」
奈津が目の前まで来た。明るい日差しの中で見ると、暗い夜の明かりの中で見るのとはまた違う凄みがある。
赤銅色をした顔には無数の深い皺が刻み込まれている。昨夜の振り乱した髪とは違い、今日は白銀の髪を茶色の紐で後ろにぴったりと束ねている。着物は昨日と同じ濃い緑色。神社で見かけたときと同じもの。幅広のえんじの帯を縛り上げ、背筋を伸ばしている。
厳しい表情。
しかしこれが普段の奈津の表情なのか、生駒にはわからない。細く開けたまぶたの中の灰色の小さな瞳が、ぴたりと仙吉に据えられている。
そこには九十を超えた人とは思えない強い意思の力が垣間見えているような気がした。
横真一文字に引き結んだ小豆色の薄い唇が動いた。
「おめえ、今朝、どこへ行っておった」
「山だよ。ばあちゃん。この人たちと一緒に」
仙吉がやさしく諭すようにいった。
奈津の目に入らないところで、佐古が小さくため息をついた。やれやれというように。
奈津の瞳が動き、生駒を捉えた。生駒は硬くなって言葉を待った。
しかし奈津はくるりと背を向け、もと来た道を戻り始めた。
生駒の耳に、祟りじゃというかすかな声が忍び込んできた。
今、奈津がそう言ったのか、昨晩の言葉が耳朶によみがえってきたのか、わからなかった。
小さな後姿が民家の裏に消えると、佐古が近づいてきた。
「あの婆さん、この仙吉つぁんが面倒見てやらにゃあ、とうの昔にあの世に逝ってるだろうに。なんの感謝の気持ちも持ち合わせておらん」
「いやぁ、どうせうちのやつが作るもんをたまに持っていくだけのことで」
「だいぶもうろくしとるな。千寿婆さんと一緒に老人ホームに行きゃあよかったのに。それくらいの金はあるだろうに。いや、すまん。差し出がましいことを言うてしもうた」
「いえ。ご心配をおかけしとります」
生駒は村の中での奈津の立ち位置がわかったように感じた。
村一番の長老として、また村の名家として代々名をはせてきた采一族として敬っているわけではないようだ。粗末にしているわけではないだろうが、少し気のふれかかった老婆として、距離を置いて接しているのだろう。しかも、他人である村人だけではなく、采家の人たちも。唯ひとり、仙吉を除いて。
入れ替わるように、ひとりの女性が姿を現した。
ふわふわしたものの上を歩くような足取りで近づいてくる。
佐古は、ちょっと家に帰ってくる、と逃げるように立ち去った。
「あの人を知ってます?」と、仙吉が聞いてきた。
「ええ。采美千代さんですね」
「あ、そうでしたな。婆さんが残してくれたガラクタをもらいにいったとき」
「はい。それ以前にも何度か」
「そしたら、あの人のおつむが、そのう、ちょっとだめになっているのはご存知ですね」
そのときの出来事はよく覚えている。まだひと月ほど前のことだ。
納屋の隅から四つの古い木箱を見つけたのは生駒だった。
みかん箱ほどの大きさで、蓋は丁寧に真鍮の釘で打ちつけられていた。
蓋の中央には、ナツ、ハナ、フサ、ケンゴと墨書されてあった。千寿の妹や弟の名である。
箱の中身はわからなかったが、名が記されているものをそのまま捨てるわけにはいかない。それぞれ名前の本人に渡すことになった。
采家の兄弟姉妹は、上から千寿九十四歳、奈津九十二歳と続く。
三番目を大葉ハナといい、その息子が仙吉だ。
次が西脇フサで利郎の母。
そして最後の五番目が健吾。そのひとり息子を武雄といい、その嫁が美千代。この間の子が宮司の健治ということになる。
ハナ、フサ、健吾は故人である。
四つの箱を玄関に並べておいた。久米が丁寧に埃を払ってある。
朝一番に奈津とハナの箱を取りに来たのが仙吉。利郎がフサの箱を持って帰った。
生駒はそういった人の出入りに注意を払っていたわけではなかったが、ひとりだけ、強烈な印象を残していった人物がいた。夕方遅くになってから健吾の箱を取りに来た美千代だ。
「お嬢ちゃん、山の祠に行ってはだめよ。化け物が住みついているからね」
美千代は木箱を抱えて庭に出て、綾を見つけるなりそう声をかけたのだった。
その場に居合わせた生駒は、美千代の放つ雰囲気に異質な何かを感じた。
美千代の顔が引きつったかと思うと、
「絶対に行っちゃだめよ!」
と、金切り声をあげたのだ。
異様につり上った目には涙が浮かんでいた。
生駒は美千代の思いもかけない剣幕に、冷たいものが背筋を走ったように感じた。しかし綾は平気な顔で、わかっているわといって、美千代を安心させるように微笑んでみせたのだった。
「空っぽの箱をありがたがって崇めたりするから、中に化け物が住みついてしまうのよ」
そう言い残して美千代は屋敷から出ていった。この間、すぐ近くにいた生駒には一瞥もくれなかった。
以前会ったときの美千代とは、まったく変わってしまっていた。
初めて会ったころの美千代は溌剌とした女性で、笑顔がすがすがしい人だった。どことなく都会的な雰囲気のある人だが、田舎の暮らしにも違和感なく溶け込んでいるようで、もんぺ姿もさまになっていた。
生駒ともごく自然に接し、つい最近まではこの庭で餅つきなどもしていたんですよなどと、世間話もしたものだった。
まるで別人だった。
顔にも以前の生気はまるでなく、うつろな目をさまよわせていた。
精神を病んでいる。すぐにそれがわかった。
生駒はショックを受けたが、この出来事以来、美千代の姿を見たことはなかったし、彼女の心の変化について誰かと話をしたこともなかった。
仙吉があいまいに頷く。
「生駒先生もご存知のように、あの人も以前はああではなかったんです。一族の中では一番の嫁だと言われてたんですけどなぁ」
そういってぼんやりと歩いてくる美千代を見つめる。
「わしは、綾ちゃんにああいうものを持たせるのはいいことやとは思いませんなぁ」
「ああいうもの?」
「ほら、あの頭巾。婆さんも懲りない人で」
「はあ?」
「美千代も、今の綾ちゃんみたいにあの頭巾を借りてよく使うていたんです。婆さんは自分の眼鏡にかなった人にあれを使わせるんですな。でも美千代はああなってしもうた。わしは綾ちゃんが心配で」
「婆さん?」
優が口を挟んだ。
「奈津さんですがな。あの頭巾を使ったからああなった、というんではないのかもしれませんけど。ただ、どうも薄気味悪いもんやと思いませんか」
美千代がすぐ近くまで来ていた。
生駒だけでなく仙吉とも目を合わそうとしない。焦点がどこに合っているのかわからない瞳で、じっと前を見据えながら通り過ぎていく。
健治、と唇が動いているように見えた。
そしてまっすぐ集会所に入っていく。
「先生、聞こえましたでしょう」
生駒は頷いた。
「息子さんが死んで、彼女もさぞ辛いでしょうね」
「そうでしょうなぁ。でも、あの人にとって、死んだんは、そのう、なんというか、恋人なんです」
「え?」
「健治のことを、自分の昔の恋人やと思ってるようなんです」
あまりのことに生駒は声が出なかった。
母親が自分の息子を恋人だと思い込むなど、そんな悲しい狂気があるものだろうか。
「ああなったわけは、わからないんです。絶対に病院には行かんと言うんで。健治も強いて連れていこうとはしてないみたいでしたし」
仙吉が悲しそうにゆるゆると首を振る。
「夫の武雄は癌で、もうずっとあんな状態でしょう。ここ数年、美千代は健治一筋で来たわけです」
「そうなんですか……」
「ところが健治が佳代子さんに惚れた。愛する息子を取られたショックがあったのかもしれませんなあ。少なくともきっかけにはなったんやろうと……」
「いつからなんです?」
「数ヶ月ほど前ですかなあ。ある日突然ということではありませんけど……」
幸い、生駒たちの声が届くところに村人の姿はない。しかし生駒と仙吉は押し殺した声で話した。
「佳代子さんが死んだことと、なにか関係があるんでしょうか? なにかその……、健治さん以上に佳代子さんが死んだことがショックだったとか」
「さあ。むつかしいもんですなあ。でも、佳代子さんが自殺する直前に、ふたりは関係を解消したみたいで……。いえね、美千代からそう聞いたことがあるんですよ。でも、そのことが美千代になにかこう……、いや、わしらにはわかりませんがねえ」
「はあ」
「いろいろと……」
仙吉が深いため息をついた。
「それにしても……、佳代子さん、利郎さんの嫁の連れ子やったってのは……。健治も知らなかったようやし、なんともはや……」
生駒はしんみりした気持ちになった。
一族の、過去ではない、現在の一族の、もろもろとした状況。
無関係な生駒に聞かせる話でもないだろうに、仙吉も健治が死んだことがよほど堪えたのか、そんなことをぼそぼそと呟くのだった。
優が口を開いた。
「ねえ、美千代さん、二人のこと、許さなかったかな」
しかし仙吉は、渋面に苦悩の色を濃くしただけで、また集会所に視線を向けただけだった。
美千代が集会所から出てきて、またよろよろとした足取りでもと来た道を戻っていく。
「もうこれで三度目です。家とここをいくら往復してもねえ。いてもたってもおれないんでしょうが……」
生駒は仙吉と別れて、大きなネムの木陰に移動した。
広場から少し離れた空地で、警察のものであろう車が数台停まっている。
積み上げられた丸太に腰を下ろした。集会所の人の出入りや広場の様子がよく見える。
警察官がこちらの様子を見るとはなしに見ていた。
仙吉が広場からいなくなった。
やがて他の村人たちの姿も消えた。
「もしかすると今日、帰れないかもしれないな」
「私はいいよ」
生駒も独り者だ。たったひとりで設計事務所を開いているだけのことだ。仕事の段取りは比較的自由につけることができる。
「明日、例の滝、見に行くか?」
「うん。行きたい。でも」
「これが解決してたらな」
「そう。でも、帰れないかもって思ったってことは、ノブ、自殺でもなく事故でもないと思ってるわけやね」
「ま、そうかな」
昨夜の健治に思い詰めた様子はなかった。翌朝に川に身を投げようとするような深刻な様子は。
それに、偶然の事故なんかであろうはずがない。ちょうど一年前……。
漠然とそう感じていた。
「ね、この村であったことを教えてよ。特に前の事件のこと」
「地鎮祭のとき?」
「そう。佳代子さんっていう人が死んだんやろ」
「あのときなあ……」
あまり話したいことではない。時間潰しネタにするには重過ぎる。
「昨日の夜、健治さんはものすごい剣幕やった。それに、佳代子さんの写真を持ち歩いていたんやろ。美千代さんのこともあるし。だからさあ」
「聞いてどうする?」
「わからない。聞いておかなければいけない。そんな気がするだけ」
「そうか……」
気は進まなかったが、今は材木の上にただ座っているだけだ。
「じゃ、かいつまんで」
「かいつままなくていい。詳しく」
久米への事情聴取は続いている。
いつの間にかネムノキの木陰が少し東に移動していた。
「ちょっと長い話になるぞ。一年前……」
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