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25 五右衛門風呂
屋敷を片付けていた頃のこと。
秋、山の紅葉が日一日と進み、急速に冷え込んだある日、生駒が佳代子を若い女性として強く意識した出来事だった。
生駒は庭の清掃作業に使った鋏や鍬や箒を洗っていた。
庭の井戸から水を汲み出しているポンプを新品に交換してからというもの、蛇口は冷たい水を大量に吐き出すようになり、外回りの作業はずいぶんやりやすくなっていた。
「うわあ! すごい、すごい!」
玄関から綾の弾んだ声が聞こえてきた。その楽しそうな様子に誘われて見にいくと、佳代子と綾が天井を見上げてはしゃいでいた。
「うお! 屋根裏部屋だ! 格好いい!」
「そうね!」
「ねえねえ、なにがあるの?」
「行ってみる?」
「うん。行く!」
「よし! さ、登ってみて」
佳代子が綾を押し上げた。綾は躊躇することなく、梯子をするすると登っていく。
「生駒さんもご覧になります?」
と、佳代子は微笑んで、ロープを柱の釘にしっかりと括りつけた。
「佳代子おねえさん。早く!」
上から弾んだ声が降ってきた。佳代子は、
「ほら、このロープを引くと天井が開くんです」
と、括りつけたロープを指ではじいてみせた。
「おもしろいね!」
天井板が跳ね上げられているせいで、ロープはぴんぴんに張っていた。
「じゃ、お先に」
と、佳代子の薄いピンク色のショートパンツが生駒の目の前を登っていった。
白いくるぶしがリズミカルに動いて、長い髪が左右に大きく揺れた。
生駒も続いた。
「へえ!」
梯子から屋根裏部屋に顔を出したとたん、驚きの声が漏れた。
明り取りの窓から陽光が射し込み、思いのほか明るい。びっしりと降り積もった埃の上に、綾と佳代子の足跡がついている。立って歩ける十分な高さがあった。
ここも例に漏れず雑多なものが押し込まれていたが、部屋の中央にいやでも目を引くものがあった。
整然と並べられた三本の長持。
中央のものだけが鳳凰の模様が彫り込まれた朱塗りのもので、他は無地のヒノキ。いずれも年代ものだった。
「中には何が」
「さあ。開けてみたことがありませんから」
綾が叫んだ。
「きっとミイラよ!」
「ウヒョー!」
佳代子もまさかぁ、と輝くような笑い顔を返す。
「おもしろいものがたくさんありそうですね」
「この部屋も整理なさるんでしょうか?」
佳代子は少し心配そうだ。
「さあ。もしかすると久米さんは、ここにこんな部屋があることを知らないんじゃないかな。蔵は手をつけないでおくようにと言われているから、たぶんここもそうなるんでしょう」
佳代子が、それはよかった、と微笑んだ。
「ねえねえ、開けてみよう」
綾がせかした。
「よし!」
三人がかりで鳳凰の長持の蓋を持ち上げた。ブリキの板で内貼りがしてあった。
「さあて、なにかなー?」
と、蓋を持ったまま覗き込んだ。
「あっ、なんだ! 空っぽ!」
結局、三本の長持のうち、手前の一本には何に使うのかわからない木製道具。もう一本には書類がびっしり詰まった木箱がたくさん入っていただけで、興味をそそられるものはなかった。
久米は屋根裏部屋の存在を知らなかった。
そしてやはり、そこに上がることをできれば遠慮して欲しいということになった。
それ以降、生駒の知る限りでは、ロープを操作して天井の板を跳ね上げてみることはあっても、梯子に足を掛けるようなまねをするものはいなかった。
ただ、この家の住人であった佳代子だけは別格で、ときには綾とふたりきりで屋根裏部屋で話している声が聞こえてきたりした。
「ふうん。そうなんや。残念やなぁ。私も上がってみたかったなぁ」
「そんなに残念がるなよ」
「だってさ、せっかくこんなに古いお屋敷に来たんやから、隅から隅まで探検したいやん」
「じゃ、案内してやろうか」
「でも、蔵と屋根裏部屋は入れないんやろ」
「しつこいな。僕の家とちがうんやから」
生駒は母屋の各部屋を優に案内していった。
最後は角座敷の裏を回りこんで裏庭に出た。そのまま奥に進むと、昨夜の会場、岩穴がある。
「その先には?」
「畑。というより、もう湿原になってしまってる」
「行ってみよ。ミズバショウとか咲いてるかも」
「そんなしゃれたもの、咲いてないけど」
岩穴の中に寺井と道長が座っているのが見えた。
無視して放棄された畑に向かう。ブドウ園の脇を通り、竹林を抜けた。
「ほら、なにもないやろ」
「ほんとやねえ。なんとなく寂しいところ、あ、これなに?」
「五右衛門風呂」
「あ、板を踏んで入るやつ? へえー、初めて見た」
湿原の脇に錆びついた鉄の浴槽が放置されていた。
畑がまだあったときには、水か肥を貯めておくために再利用されていたのだろう。
優が鉄風呂を覗き込んだが、
「ぎゃ! これ! ウゲェ、気持ちわるー」
と、飛び下がった。
中には、干からびて骨と皮だけになった獣の死体があった。
「落ち込んで、出られなくなったんかな」
「ん? こいつ、頭がないぞ」
黒い毛をした獣だった。
猫ほどの大きさだ。尻尾が長い。
「まさか、これ」
「あの猫か?」
首を切り落とされた猫の死体……。
「変なもの見つけてしまった」
母屋の庭まで足早に戻った。
「ノブゥ、祟りがあるかもぉー」
「そういう変なことを気にするから、祟られるんやぞ」
「ヒャー。こっちに振ってこないでよ。私はその猫、見たことないんやから。ノブなんか、頭とか撫でたこと、あるんやろー」
「こら、いやなこというな」
「私は名前も知らないし」
「僕も知らんよ。真っ昼間でよかったな。これが真夜中やったら、縮みあがってしまうところや」
「真夜中でなくても怖いよぉ」
「ふうー、やれやれ。それにしても、あんなところに捨ててあったとはな」
離れでは警察官が歩き回っていた。
健治が寝ていた部屋にも何人かいて、かがみこんでなにかを探している。生駒と優は平石にもたれかかって彼らの動きを目で追いながら、猫の話をしていた。
平石は冷たくて気持ちがいい。
手の平に、石のざらついた凹凸があたって痛い。
「誰が捨てたんかな」
「ノブは佳代子さんと思ってないんや」
「当たり前やろ」
「ねえねえ、この石造は?」
「ん?」
「あ、権現さんの石像?」
「そうかもしれないな」
「座るのにちょうどいいね」
「やめとけ。罰が当たるぞ」
道長と寺井はまだ岩穴部屋から戻ってこない。
「事情聴取、長いな」
今日はこんなふうにしてダラダラと過ごすことになるのだろう。
寝てしまった久米に黙って帰ってしまうのも気が引けるし、警察から食らった足止めはいつ解除されるのだろう。
「やれやれ」
「さっきから、やれやればっかり」
「退屈。そういっちゃ、死んだ人には悪いけど」
「冷たい」
「というより、実感がない」
手の平についた砂粒を払った。
砂粒が押し付けられていたところに小さな窪みができていた。手の平を擦り合わせて痛みを拡散する。
「佳代子さんが西脇さんの娘さんってこと、知ってた?」
「いいや」
「誰も知らなかったみたいやね」
「ああ」って
「佳代子さんが住み込みのお手伝いさんになったことって、そのことと関係あるんやろうね」
「ん?」
「だってさ、ちょっと不自然やん。若くて美人やったんやろ」
優の言うとおりかもしれない。
あの人にとって、ここで千寿の世話をすることになんらかの意図があったのだろうか。
しかしその意図は、たとえば千寿の遺産を狙ってというような黒々とした目的に向かったものではなかったはずだ。佳代子の清々しい印象は、そんな想像とはかけ離れていた。
生駒の心を読んだように、優がつぶやいた。
「見かけによらず、ということも」
生駒は、彼女に限って、とは反論しなかった。
佳代子を知ってはいたが、親しくしていたのかというとそうでもない。彼女をひとりの女性として好感を持って見てはいたが、ただそれだけのことだった。彼女がどんな考えを持っている人物かと問われれば困ってしまう。その程度の付き合いだった。
「ねえねえ、西脇さんのことはどう思う? あの態度は?」
「それが変なところやな。いくら妻の連れ子で嫌っていたとしても」
「そう。変なのは佳代子さんというより、むしろあの男」
「なにかを企んでいた、とか?」
「なんとなく」
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