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季節が冬に近づくと、高瀬彰は嬉しくなる。夏を越すと、体中に纏わりつく何かから解き放たれた気分になる。高い気温と湿度とが重い空気となって絡み付くのを嫌う彼にとって秋らしくなる気候は相当嬉しいものであった。
とはいえ、高瀬はこれを手放しには喜べないでいた。彼は今、昨年建設された新校舎の大講堂で講義を形だけで受けている。視線は講義が開始してからずっと窓の外の青空に注がれている。この教育基礎論という講義と、このあとの時間に続く教育制度論が目下の悩みである。彼は先の春学期に双方の単位を落としてしまっている。このため春学期と内容の変わらない講師の話はつまらなく面白味がない。高瀬が授業は耳に任せ、目はほかに向けている理由はこれである。教育基礎論も教育制度論も教員免許の取得には必ず修めねばならないうえ、学生生活も残り二年となり、頭を大いに抱える事態に陥っているのである。しかし、悩みの出所はこれだけではない。
藤原珠希という名の女学生がいる。これが高瀬の恋人にして悩みの出所なのだ。眉目秀麗に今一歩足りない容姿の持ち主である藤原は高瀬にとって得難い女であった。高瀬は生来の老け顔と口下手さ、人付き合いへの苦手意識のために藤原まで一切の女付き合いがなかった。しかし、このままではまずいと感じた高瀬は大学入学と同時に必死で席の隣り合った者に声をかけ交流を図った。多いなる焦りのある交流のために周囲に悪目立ちし、「高瀬彰は女ったらし」という噂が構内に立ちもした。そんなさなかに、人の噂が一体なにになるのだ、とでも言うかのように、噂に構わず彼と恋仲になったのが藤原珠希だったのである。これを機に彼は調子づいて友人付き合いも良好になり、学生生活というものに対し今までに味わったこともない充実感を覚えていった。また、藤原という自分の身の丈に合わない得難き女を得たために自信もつき、老け面の顔のままながらも表情は明るくなっていった。ところで当たり前のことであるが、いいこと尽くめ、となるわけもなく、付き合ってみると彼女とは時々意見の合わぬことがあった。例えば藤原は勉学のためではなく、就職の前段階としての大学生であり、勉学のために大学に通う高瀬と折に触れて小さないさかいを起こしていた。
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