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思いのほか気楽にその覚悟は決まった。あっという間に藤原に関するしかじかのことが頭の片隅に追いやられていくのを高瀬は感じていた。
講義が終わると高瀬は早速河井に声をかけた。河井は最初驚いた様子であったが、相手が高瀬とわかるとすぐに落ち着き微笑んだ。合同発表の準備期間にも彼女は度々この笑顔を高瀬に向けていた。この笑顔のために人の名前と顔とを覚えるのが苦手な高瀬でさえ河井のことを記憶していたのである。幸先よく、次の講義は同じ教育制度論で、隣の席に座る許可を得るに至った高瀬は荷物を河井の隣に移動させた。
「荷物、たくさんあるんだね」
高瀬の肩掛け鞄とトートバッグを見て河井は感嘆した。少し低めの声で喋る人なのだな、と高瀬は初めて感じた。思い返してみると、合同発表のときは高瀬は嬉々としてリーダーシップを発揮し自分が喋ってばかりであった。河井との初めての私的な会話である。胸が弾む。高瀬に河井との会話が楽しく感じられた。
正面からまじまじと河井の顔を見るのも初めてである。化粧っ気は薄い。目は細く一重で、口は小さく腫れぼったい。少しうつむき加減の顔も人より大きな耳も高瀬には愛らしく思えた。
ほんの少し視線をずらし、高瀬は河井の鞄を見た。
「そのウサギのキーホルダ、かわいいね」
河井の肩掛けバッグに吊る下がっている小さなぬいぐるみを見つけ、高瀬は思ったままに褒めた。相手の身の回りの物を褒め、間接的に相手のセンスや嗜好を認めつつ、「こちらも同じ趣味を持っているよ」とアピールすることは人間関係における基本である。河井は「そうかな。そんなことないよ」と満更でない様子で否定した。他人から率直に褒められることに慣れていないのだろう。
「そうかな。僕は好きだなあ。こういう小物。そうだ、よかったら放課後一緒に出掛けないか。こいうのをどこで買っているか知りたいし、僕は春学期も同じ講義をとっていたからノートだけはあるんだ。もしかしたら何かしら力になれると思う。この先生の講義は特別難しいんだ! だから是非そうしよう」
冷静でない状態の相手にすかさず迫る。河井は二の句継げられぬままかしずいた。
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