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日の傾くのが早くなっていた。先ほどまでまだ明るいかと思ったのに、すっかり辺りは赤みを帯びていた。夕日を背負う高瀬の表情は藤原からはよく見えなかったろうが、逆に高瀬からは彼女の顔がよく見えた。新校舎から正門へと延びる銀杏並木で向かい合ったまま、しばらくそのままでいた。藤原は――高瀬はこれにもっとも驚いたのであるが――眼を見開き、動けないでいるようだった。彼女の示した異様な状態のために高瀬までもが金縛りにあう。あの藤原が絶句していることが信じられないでいた。
極度の緊張のために胸が苦しいが、高瀬は堪え、言葉を続ける。今日この場で、このときに決着を着けると強く覚悟していた。
「僕はもう君の望む恋人にはなれない。別れたほうが双方によりよい」
二人、目を見合ったまま動かない。動けない。高瀬は目を逸らしたい衝動に駆られたが、同時に弱々しく見える異様の藤原をもっと眺めていたいという衝動にも駆られた。藤原がこんなにも可愛らしい女だったのか、と心の底から驚嘆している。銀杏の実の臭さにさえ負けてしまいそうな今の彼女にさらなる追い討ちをかけたいと強く思われた。今なら彼女を泣かせるのも容易いことのように思えた。吹く風一つ一つが冷たく感ぜられ、銀杏の実の臭いが鼻を突く。本来であれば朱の銀杏並木という、大層ひなびた景色だろうに、心境のために大層しなびたものとなり、道行く人々の視線がそしるように二人に注がれる。
高瀬の胸中には先とは全く別の胸の高鳴りが訪れていた。今ならいかようにも舌が回りそうな気分であった。彼女の突かれたくない弱みの一つ一つが目に見えるようであった。高瀬は、もっと弱った藤原を見たいとも思った。屈服させてやりたかった。
「どうして?」
藤原の声が震えていた。こんなにも弱々しい藤原を高瀬は知らない。
「今まで私のこと黙って見守ってくれていたのにどうして? 今までうまくいっていたじゃない。そんなの勝手よ。ひどい」
藤原は彼女なりに二人の仲はうまくいっていたと思い込み、また彼女なりに高瀬を愛していたらしい。思い直してみれば好意もなく悪い噂のまさに流れているそのときに噂の出所と付き合おうと思う者はいないだろう。確かに藤原は高瀬を愛していたのである。これに気が付くと高瀬の胸中のサディスチックな一面は霧散し、藤原への憐みへと変わった。
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