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――べチャリ。
ひどく不快で、いやにはっきりとした音が響いた。
その時、ようやく俺は自分が恐怖を抱いていたのだと気付いた。この冷えきった空気に、得体の知れないこの音にその恐怖が呼び覚まされる。
手足は震え続け、喉は渇き、息を飲む度に針が喉を通るような痛みが走る。
暗闇に慣れはっきりとしてきた視界には、純粋な黒が映っていた。それは暗闇に慣れた視界の中でさえ、純然たる黒のままその小降りの身体を震わせ、四つん這いになっている足らしきものを意味もなくその場で踏み鳴らしていた。
――べチャリ、べチャリ。
その不快な音と、正体の分からない黒い塊がより一層俺の恐怖をかきみだす。
怖い、逃げたい、叫びたい。
そんな感情が渦巻くうちに俺の足は少しずつ後ろに下がり始めた。
ゆっくりと目の前の黒い塊に気づかれないように音をたてないように。自分にそう言い聞かせながら、一歩一歩後退していく。
ただ、あの塊から距離を取りたくて、離れたくて。それだけの感情で俺は歩を進める。
――――ガシャン。
「――――――っ!」
しかし、ここは家の中。延々と歩き続けられるような広い場所ではない訳で。
「......何だってんだよ。お前は」
後ろにキッチンがあるのも知らず、背がシンクの壁に当たり、乗っていたボールを落としてしまった。
「............」
あの生々しい音が止む。不規則に上下していた黒い塊の動作がピタリと止まった。
部屋にはボールが縁を下にして回っているガランガランと言う音しか聞こえない。
塊が頭らしき部分をゆっくりと回転させる。
――ガラン、ガラン、ガラン、ガラン。
心臓が痛いぐらいに早くなる。畜生、畜生。
――ガラン、ガラン、ガラン。
足がすくむ。異様に冷たい空気を吸い込むたびに肺が針で刺されたように痛む。
――ガラン、ガラン。
眼球はとっくに乾いているのに瞬きが出来ない。苦しくて苦しくて首をかきむしりたくなる。
――ガラン、ガラ......
そうか、これなんだ。俺は妙に納得してしまった。この状況がどんなものか。これから俺はどうなるのか。
――ガラ......
イヤだ。そうなってしまうのはイヤだ。俺は咄嗟に台所の引き出しを見向きもせずに漁り、そこにしまってある包丁を取り出した。
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