待の章

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花月はその腕をするりとかいくぐり、貴文に向けて言った。 「そろそろ帰ったほうがいいですよ。もうすぐ夜がやって来ますから。」 「え?今も夜だぞ。ほら、今9時半だし。」 貴文は不思議そうに首を傾げながら、時計に視線を落とす。 花月は困ったように微笑みながら、シャツを羽織った。 「途中まで送ります。行きましょう。」 「お、おう。」 花月に促され、貴文は鞄を引き寄せた。 昼間に比べてずっと涼しくなった夜道を歩きながら、貴文は何気なく空を見上げる。 星が出ていないかと見上げたのだが、星らしきものは明るい夜の街のせいですっかり霞んでいて、その代わりに遠くのほうの建設途中の高層ビルの上に備え付けられたクレーンが、遥か下方の街の明かりに照らし出され、不夜城の天守閣のように浮かび上がっていた。 「ろくろ首になったら星が見えるかな。」 「え?」 貴文の独り言は花月の耳にも入ったようで、花月は足を止めた。 不意打ちを食らったような花月の表情を不思議に思いながら、貴文は続けて言う。 「街の明かりの上まで首を伸ばせば、空が近くなるかと思ったんだけど……。」 一瞬、花月は嬉しそうな微笑みを浮かべた。 だがそれはすぐにいつもの少し気だるげな微笑みに変わってしまい、弁解するような貴文の言葉に対し、花月は無言だった。 そうしているうちに、二人は暗い路地の向こうに夜も動き続ける街への明るい入り口を見た。 花月は足を止めると、貴文に言う。 「お気をつけて、雨宮先輩。貴方の知らない夜もあるんですから。」 「俺の知らない夜?なにそれ?」 貴文が花月のほうを振り返ると、先程まで確かにいた花月の姿は跡形もなく消えていた。 「あれ……おかしいな。」 確認のため辺りを見回すも、花月の姿はおろか、足音すらない。 その代わり、ぞっとするような闇が路地の奥へと延びていた。 ついさっき歩いてきた道は、こんなに暗かっただろうか。 一歩でも踏み出せば、そのままこの闇に吸い込まれてしまいそうで、貴文は慌てて明るいほうへ駆け出した。 そうして多くの人が歩く街に出ると、いくらか恐怖心が希釈された。 その上で今一度路地を覗き込んだら、ぽつりぽつりと灯る外灯が奥に続いていく、ごく普通の路地があった。 あの思わず悲鳴をあげたくなるような暗闇はなんだったのだろう。
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