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街角で会うと彼はいつも帽子の鍔に指を当て、ちょっと会釈して微笑んだ。立ち止まって話をしたり、肩を並べて歩いたりなどということはしなかった。これもまた我々の間の不文律である。目礼を交わすのも稀で、たいていは互いに無視して通り過ぎる。何故と訊かれても困るが、ところで私はその頃から帽子に強い憧れを抱き始めた。殊に麦藁帽子とキャスケットに熱心だったが、これにはわけがある。彼の部屋に設えられた小さな私設映画の影響だ。
観るのは専ら短篇映画が主だったが、その中の二場面が私の脳裏に焼き付いている。
【第一】は、狂ったように咲き乱れる向日葵畑での一場面。真直ぐに伸びる一本道を女性が歩いている。彼女はふと足を止めて、何かの予感に心をざわめかせるような顔つきで彼方を見る。次第に風の音が強まり、煽られた向日葵たちが首を折って風の足跡を彼女に伝える。そして突風――彼女の頭に載せられていた鍔広の麦藁帽子が、青い空へ。
【第二】は、或る港町の一場面。いささか大きすぎるキャスケットを載せた少年が、青果店の棚から紅い果実を盗む。気付いた店主が怒鳴り、少年は全力で駆け出す。港町の明るい街並みを駆け抜けて行った少年は、裏路地に建つ細長い家の地下室に身を隠した。そして一息ついて帽子を脱ぐと――溢れ出した豊かな金髪が肩にかかった。実は少女だったのだ。
この2つの映画は、前者が恋愛映画、後者が喜劇映画だったと思うが、その内容に就いては全く憶えていない。ただその二場面のみが強烈な印象を残している。
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