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また、不健全なことも随分覚えた。薄青や深緑の香り高い酒を舐めたこともあるし、紙巻きを試してみたり、枕草紙、猥褻図書の類を目にしたりもした。
ただこれらに関しても私はその他の講義と変わりなく知的好奇心を持って臨んだと明言しておきたい。一般社会とその私室での私の倫理は同一ではなかったのだ。折々、彼と接吻を交わしたことがあるけれど、だからといってそこに何か特別の意味があったわけでもない。
むしろ私は接吻ではなく指切りに禁忌の気配を感じていた。互いの小指を折ってからめることへの淫靡な印象とその疼痛にも似た甘美な感触に対する抵抗感は何とも形容し難く、それに比べれば唇を合わせる行為などただの挨拶程度にしか思っていなかったので、退室時刻の18時30分には、よく別れの儀としてそれをした。
心理学などを持ち出してあれこれと詮索したくはないが、彼は、唇に何か特別の執着を抱いていたらしい。読書の際には左手中指の第二関節を唇に圧し当てているのをよく見たし、火を点けない紙巻きを銜えていたり、紙石鹸を当てていたり。そうした仕種は彼が不安や焦燥を抱えているときに現れるようだと私は推測していた。そうした感情が極限にまで高まると彼は私を呼び寄せて、私の指先や項に口づけをする。口づけと言ってもそれはただ唇を圧し当てるだけのことに過ぎなかったが。
私の身体に就いて彼が称賛するものに、唇と項があり、いつも微熱を帯びたように紅い唇、彼の勧めで今やすっかり伸びた髪に隠された痛々しく白い項、それらは特に彼の好むところ。そして耳朶、手頸、鎖骨など。未だ自慰を覚える以前のことであったとは言え、当時は少年期の終り、思春期を目前にした時期であっただけに、さすがに耳朶や鎖骨に受ける接吻には何か可笑しな気分になったものだが――そこに倒錯的な感覚は全く無かったと記憶している。
彼を駆り立てるその感情は前述の冷たい虚無であった。数々のオブジェが賑やかに犇めく函の中にあっては、私が虚無を感じたことなど一度もなかったけれど、彼は常に虚無と背中合わせだったようである。
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