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記憶の底に強く焼きつく一場面。彼の心臓に短剣を突き立てた。紅い鮮血が私室を染める。うつ伏せに倒れている彼。私は全身に返り血を浴びて恐怖と恍惚に震えている――だが、その記憶が真実であるとはとても思えない。なぜなら短剣を握っている私は【初等部の制服】を着ている。
しかし別の記憶では、私は【中等部の制服】を着て、それを彼に披露したことがある。だから初等部の生徒のときに彼を殺したはずがない。
私の通っていた女学校は中等部の制服が洒落ており、制帽もまた大層趣味が良く、私は特にそれを好んでいたものだから袖を通したその日の内に彼にお披露目したのをはっきりと憶えている。
にも関わらず、彼を殺したあのときの短剣の冷たさ、重さ、私室に漂う血の香り、【初等部の制服】に浴びた返り血の生温い感触、いずれもはっきりと憶えている。どういうことなのか。やはりそれもまた彼の私室で見た【儚い白昼夢】のひとつに過ぎないのか。
血に纏わる記憶ならば事欠かない。彼は熱く熱した短剣で私の左眼球を抉った。だがそんなことは現実には無かった。それもまた白昼夢。手頸を怪我したその傷口から、彼の血液を舐めたこともあった。それも? 彼の親指に爪を立てて血を滲ませた。それも?
私の記憶は錯綜を始める。軽い頭痛。珈琲を口にして、左の眼窩に当てた眼帯に指を添えながらその痛みが治まるのを待つ。私には左眼が無い。なぜ無いのか憶えていない。彼が抉ったから? いや違う。自分で抉ったのだ。彼の返り血を浴びて開かなくなった瞼の上から。そうだ。たしかに憶えている。
函の中の函。
その函の中にある函。その函の中の……
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