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【燃え盛る炎に包まれた私室】の情景がふと心に浮かぶ。暴れる紅い焔。緋色に染まった彼の瞳は何と冥いのだろう。音は無い。彼とよく観た無声映画のよう。炎の向こうで彼の唇が動く。枢――私の名前を呼んでいる。枢、枢、枢。
函が燃える。消え失せる。待って。もうすこしこのままでいたい。できれば永遠に。ずっとこのままで――
「嗚呼」
私は眼を開く。彼の優しい微笑は今でも鮮明に想い出せる。彼は死んでしまったのだろうか。それとも生きているのだろうか。彼との出会いが不明瞭であるように、彼との別れもまた不明瞭なのである。少なくとも14歳の頃から、彼と顔を合わせていない。
14歳のとき懐胎した。心当たりは無かった。あるいは接吻で懐胎すると言うなら相手は彼しかいない。両親に相談するとひどく訝しんで私を見つめた。お前が懐胎などするはずがないだろう。できるはずがない。だってお前は――
――枢。枢、君は眠ってしまったのか
肩を揺さぶられて眼を開ける。彼が、私の鏡像に向かって微笑みかけている。整えてもらった髪は美しい捲毛。ふわふわして佳い香りがする。
――凛々しい。まるでおとこのこだ
――ああ素敵です。あの映画に出て来た美少年のよう
――枢、君は少年のような少女だね。だが少女のような少年でもある
――ええ
鏡台。短剣。黒。赤。地球儀。微笑。俯瞰した小宇宙。炎焔。小さな悲鳴。書斎机。扉。蟲惑。過去現在未来。靴音。眼球。梔子の香。散り敷く薔薇の花弁。帽子。接吻。虚空。微かな吐息。水差し。有限。知的嗜好。概念。ずっとこのまま。ずっとこのまま。
幾重にも重なる函の最奥で、彼は今でも物思いに耽っている。かつて私の時間が、現在よりも濃密だった子供の頃。その世界を共有した一人の人物……
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