函の中の万有引力

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     現在の私と同じく、彼も当時は学生だった。  音楽や絵画、神学に関する書物が賑やかに並ぶ書棚が南側の壁面にあったが、彼はM大学薬学部の学生だと語った、もっとも、彼はたいていこの象牙の塔に籠りきりで、滅多に学校へは顔を出していないようだったが。    壁に飾られたcinema広告、色褪せた世界地図、月面図、五線譜、星座早見表……また、美しく整理された貝殻標本、昆虫標本、鉱石標本、……あるいは書斎机の上、その中空に静止している太陽系モビール、棚の上の硝子細工、掌に載るほどの地球儀、天体望遠鏡、迷路盤、骨格標本、球体関節人形、造花の薔薇、銀器一式、外国の切手。等々。    それらのオブジェは機械的な、幻想的な、そして禁欲的な聯想へと繋がる。彼の部屋はひたすら内部へと向かって拡がる小宇宙であり、外界から隔離された城あるいは牢獄のように思われた。当時、145cmに満たない身長の私にとって、あの部屋を――様々な物体群の存在する、天井の高いあの部屋を――【小宇宙】と呼ぶことは決して比喩ではなく、誇張でもなく、空間的にも観念的にもまさしく小さな宇宙そのものなのだった。    創造者たる彼が見せてくれる絵画や書物――確かそこには禁忌と聖性を孕むpornographyも含まれていた――だとか、詩、愛聴盤、学術書、映画、それらが、私の思春期に及ぼした影響に就いては「その後の嗜好を彼によって決定づけられてしまった」と言っても過言ではなく、現に当時、縮れ毛に悩んでいた私に髪を伸ばすことを勧め、櫛や整髪品の使い方を教えて私の容姿に口を挟んだのも彼だったし、それによって縮れ毛が美しくふわふわとした捲毛に変貌を遂げるのを彼の私室に置かれた鏡台で初めて眺めたときの衝撃を私は忘れない。  
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