函の中の万有引力

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     我々は会話らしい会話を殆ど交わさなかった。私室の空気は重たく、私はひと呼吸するたびに自分の躯が沈み込むような錯覚に囚われていたものだが、彼はと言えば、私室の主らしく寛ぎに満ちてその細長い指先に顎を載せ、読書したり物思いに耽ったりしていた。彼は全く以て寡黙なのだった。眼球の運動と指先の仕種で間に合わせる意思の疎通。その意思は大体のところ私に伝わるが、複雑な内容となると彼の口からいくつかの単語が零れ落ちた。  それらを拾い集めては彼の意思を汲み取る。回りくどく不便なようで、ところが、それは結果的にひどく効率的だったと言えるだろう。彼が投げ出すように言葉を放り投げ、私が仔犬のようにそれに飛びつくその過程では、言葉は解れることなく私と彼を繋ぎ、その世界を紡いでゆく。沈黙は心地好く、室内の品々に沁み込んでいくように思われた。  土曜日になると彼の家を訪れる。高台にある赤煉瓦。時刻は17時45分から18時30分まで。  なぜそうかと訊かれると何とも答えられないが、そう思い返してみれば我々の間には息の詰まるような不文律が数多く存在しており、それは暗黙の内に成立していた。  私は絶対に彼の家の呼鈴を17時45分に鳴らすのだった、そして18時30分に彼の家をあとにする。毎週一度、45分間だけの世界。  彼の私室には細長い柱時計があり、その横に籐椅子があった。私の居場所はそこだった。そこから様々なものを見た。興味を惹かれたものの前に歩み寄り、しばらく見つめていると彼はその由来を話してくれる。  そうしたとき彼はひどく饒舌で、まるで彼の口を借りてその物品が自らの起源を語っているようでもあり、すると私は彼に対してますます寡黙の人という印象を強めた。短い言葉を投げ捨てるか長広舌を振るうか、いつもそのどちらかなのだ。    
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