函の中の万有引力

5/20
32人が本棚に入れています
本棚に追加
/20ページ
     彼の私室で最も私が好んだのは鏡台である。鏡台そのものではなく、自身の鏡像と言った方が正しい。まるで罰であるかのように鏡の前に立ち、自身の美貌と、醜貌とを見つめるのが私の思春期の始まりだった。  ところで、落ち着いて鏡の前に立てる環境というものを私は当時、持っていなかった。洗面所は家族の往来があるし、自室で手鏡を眺めるときでさえ用心が必要で、しかも私は『鏡に見入る私』を他人に見られることに対して殊更強い嫌悪感を抱いていたから――  と、ここで一度、回想を中断して私は考える。私の鏡に対する嗜好は、彼と出会う以前からのものだったかどうか。その辺りの記憶は前後する。ともあれ、その嗜好が彼の私室で成熟したことは間違いない。  私は現在、27の鏡を持っている。いや、昨日また欅町の雑貨屋で新しい鏡を衝動買いしてしまったから28だ。もっとも、現在の私は鏡像ではなく鏡そのものの愛好家であり、趣味として鏡を蒐集しているに過ぎない。鏡の前に立つのは、身だしなみを整えるためで、それを他人に見られてもどうということもなくなった。    現在――鏡に映る私は特に代わり映えせず、いつも同じだ。あの頃は違った。朝と夜とでは印象が違うし、鏡によってもそこに映る私は異なる。ひどく不安定な時期だったのだ、身体的にも、精神的にも。  
/20ページ

最初のコメントを投稿しよう!