函の中の万有引力

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     少年時代、切手や古銭等の蒐集品を入れるために彼は洋菓子の空函を使っていた。石や貝殻、硝子球、螺子といったものがその中に収められ、一定数を超えるとその分類に乗り出す必要があり、その過程で函は二つ三つと増えていったという。彼の私室は無数の函から成る。蒐集品の多様化に伴って函は増加、巨大化し、ついには蒐集家である彼自身がその函の中を棲処とするに至った。      空間、重力、空気の薄さ、時間、光――函の中にあっては、あらゆる事象は外界のそれと異なるように私は感じた。彼はよく喀血したものだが、見れば、血液ではなく薔薇の花弁なのである。それは絨毯を穢すことなくひらひらと散り敷いた。咳き込む度に舞い散る紅い花弁。あるいは夢だったのだろうか。あの籐椅子で微睡むといつも紅い夢を見た。薔薇を吐く病など聞いたこともない。斯様に私の記憶の深層には信じ難い像が数多く在る。彼が天井を歩いたり――窓の外に薄紫色の三日月が昇ったり――書棚から落ちた一冊の本が猛禽の如く羽搏いたり――それらの心象はおそらく彼の私室で見た画集の一頁、映画の一場面等と混同したものではないかと思われる。  そしてまた、彼は梔子の如く甘い芳醇な香りの香水を平生から嗜んでおり、いつも袖口や襟元から香るのだったが、折節その香が私を睡くさせたのもその一因かもしれない。私は夢現だった。冷静に考えれば、頻繁に喀血するような者が病院から離れた高台の洋館で暢気に独り暮らしなどしているわけがない。ただ彼の佇まいが死を聯想させるのでそのような記憶の齟齬が生じたのではないか。    痩躯、罅割れそうな白い肌、冥い眼球、涼やかな睫毛、細い指先、柔らかな髪、掠れる低い声。嗚呼、午睡するように夭逝してしまいそうなひとだった。夭折者と言えば肺病を聯想する私のことだから、そのために薔薇を吐き散らす妄想に耽ったのだろう。    
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