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『…それは勇気ではない』
不意に
相変わらず前を向いたまま散策でもしているかのような足どりで、用心棒はハッキリとそう言った
既に懐中の武器を握り絞め、隙を衝こうと機を伺っていた御者は思わず目を見張る
『恐がる必要は無い。あんたの事をばらしたりしないよ。雇い主や町の連中にあんたの事をばらした所で俺に何の得も無いのだから。あんたはただ、その腹にある恐怖の源を手放すだけでいい』
明らかな殺意を抱くこの御者を、普通なら自由にしてはおかない
自分の命を狙う者を常に傍で自由にしておくのは余りにもリスクが高過ぎるからだ
まして戦いのプロともなれば、それを熟知していない訳は無く、また自由だけではなく命すらも奪う事は容易い筈
なのに
この武装した男には敵意が感じられない
しかも
誰にもばらさないと言っている
不思議な男だ
我知らず懐にある武器を手放していた
いつの間にか
御者の中にある強張りも緩んでいた
『さて、害心と恐れを捨て去ったならば、あなたは最早盗人ではなく熟練された馬車の制御者だ。御者さん、あなたに一つ問おう』
涼やかな声、整えられた姿勢、自然な歩みのままに用心棒は言う
『目先にぶら下がる一時の欲に目が眩み、生活の糧を与えてくれる雇い主を殺し続けたとしたならば、その者はやがてどういう末路へ辿り着くのだろう?』
御者の頭に閃くものがあった
何故私は
こんな事にも気付かなかったのだろう
『…やがて雇い主はいなくなり、身の破滅を招く他ないでしょうな』
『故に御者さん、俺は害心を捨てるべしと自らに説く、今まさに、あなたがそれを悟ったように』
暫しの沈黙が流れた
天からの恵雨が乾いた大地を潤していくような
爽やかな芳香が空気を充たしていくような
そんな清らかな静寂が暫し訪れた後
御者は口を開いた
『あなたは…あなたを殺そうと常に狙っていた私を、そうと知りながら殺さずにいてくれた。
そればかりか、私により良く生きる知恵まで授けてくれました。
是非、名前を聞かせて下さい。
私はあなたの名と共に受けた恩を忘れずにいたい』
蒼い空と、静かな草原を、柔らかい風が吹き抜けて行く
安寧たる一行の行く先に
遠く町が見えて来た
『俺の名は迦流真[カルマ]。この肉体と精神に何一つとして持ち得ようとしないが故に、見解と思考と言語と行為と努力と生活と想念と集中、または肉体と精神において限定と限界を持ち得ない者だ』
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