7人が本棚に入れています
本棚に追加
かり、爪を食む音がいやに部屋へ響く。かりかり、何かを引っ掻くようにも聞こえた。
「開けてよ、寒いんだ」
ふと、月明かりが障子の向こうに人影を揺らめかせる。隠したつもりなのだろうが、尾っぽがゆらり揺れた。
妖だ。
出て行け、と幸村は怒鳴る。けれど障子の向こう側でゆらゆらと、影はたゆたうだけだ。
「ねえ旦那」
媚を売るように甘ったるく、それは続ける。怒声に逃げないとは、よくできた妖だと思った。
「忘れちまったのかい」
障子の向こうで尾が広がる。ゆらゆら、かがり火のごとく。
「おまえなぞ知らぬ」
それを聞いてぴたりと妖は動きを止めたかと思うと、かたかたと体を震わせはじめた。
いやだ、と言った。やがて影が小さくなった。氷が融けるようにゆっくり、確実に。
どうやら頭を抱えているらしい。
ひ、ひ、と啜り泣くような吐息が洩れてきた。どうせ常套手段の泣き真似だ。
幸村は煙管に手を伸ばし、香葉をこさえて火で炙った。独特の香が部屋に漂う。
「戻ってきたのに、名前を呼んでも貰えないなんて」
妖がわめいた。
名前。妖に名前なぞ在るものか。
幸村は妖怪飼いではないし、ましてや名前等知らない。ひくひくと引きつった耳障りの悪い嗚咽を聞いている内に、何故か幸村は無性に腹が立った。
もう一度、出て行け、と告げる。いよいよ妖はわあわあ泣きだした。だんな、と鼻に掛かった声が時折零れる。それを幸村は無視して煙管の灰をとんとんと落とし、咥えて香を胸一杯に吸い込んだ。
その昔、信州が上田にはそれはそれは従順な忍が居たという。若虎の威を借るでもなく、一人のましらとして名を上げた。
ましらだが、忍は狐であった。
真に忍んだ彼を見付ける事は叶わず、人を真似て姿を変え、挙げ句の果てに主を化かした事もある。しかし最期は主に敵将の首を授け、姿を消したという。単なるお伽噺だ。
最初のコメントを投稿しよう!