おきつねさま(紅主従)

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 かり、爪を食む音がいやに部屋へ響く。かりかり、何かを引っ掻くようにも聞こえた。 「開けてよ、寒いんだ」  ふと、月明かりが障子の向こうに人影を揺らめかせる。隠したつもりなのだろうが、尾っぽがゆらり揺れた。  妖だ。  出て行け、と幸村は怒鳴る。けれど障子の向こう側でゆらゆらと、影はたゆたうだけだ。 「ねえ旦那」  媚を売るように甘ったるく、それは続ける。怒声に逃げないとは、よくできた妖だと思った。 「忘れちまったのかい」  障子の向こうで尾が広がる。ゆらゆら、かがり火のごとく。 「おまえなぞ知らぬ」  それを聞いてぴたりと妖は動きを止めたかと思うと、かたかたと体を震わせはじめた。  いやだ、と言った。やがて影が小さくなった。氷が融けるようにゆっくり、確実に。  どうやら頭を抱えているらしい。  ひ、ひ、と啜り泣くような吐息が洩れてきた。どうせ常套手段の泣き真似だ。  幸村は煙管に手を伸ばし、香葉をこさえて火で炙った。独特の香が部屋に漂う。 「戻ってきたのに、名前を呼んでも貰えないなんて」  妖がわめいた。  名前。妖に名前なぞ在るものか。  幸村は妖怪飼いではないし、ましてや名前等知らない。ひくひくと引きつった耳障りの悪い嗚咽を聞いている内に、何故か幸村は無性に腹が立った。  もう一度、出て行け、と告げる。いよいよ妖はわあわあ泣きだした。だんな、と鼻に掛かった声が時折零れる。それを幸村は無視して煙管の灰をとんとんと落とし、咥えて香を胸一杯に吸い込んだ。  その昔、信州が上田にはそれはそれは従順な忍が居たという。若虎の威を借るでもなく、一人のましらとして名を上げた。  ましらだが、忍は狐であった。  真に忍んだ彼を見付ける事は叶わず、人を真似て姿を変え、挙げ句の果てに主を化かした事もある。しかし最期は主に敵将の首を授け、姿を消したという。単なるお伽噺だ。
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