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突然聞こえてきた声に身体を起こせば、部屋の片隅で本を読んでいる着物姿の男が目に映った。
この屋敷の住人だろうか。
「君、牛にぶつかられたんだよ。覚えてない?」
「……牛?」
言われた言葉の意味が分からず、朔は眉を寄せた。
普通、町中を歩いていて牛にぶつかられることはまず無いだろう。
いや、町中でなくとも牧場を歩いていたって、そんなことはまず無い。
だが、そんな朔の困惑に気付いているのかいないのか、男は本へ視線を落としたまま平然と会話を続ける。
「そう、牛。どこか怪我は?」
「……いえ。どこも痛くは無いので大丈夫です」
「そう。なら良かった」
男はそう言うと手にしていた本を閉じると、ようやく顔を上げた。
長い黒髪と切れ長の目に泣き黒子。十人中十人が綺麗だと言う顔をしている。
だが、その顔は無表情で、どこか冷たい印象すら与えた。
「牛にぶつかられただけじゃなく、下敷きにされても怪我一つ無いなんて…あんた運が無いんだかあるんだかよく分からないね。…まぁ、怪我がないなら治療費とか請求されなくて済むから良いけど」
「…貴方の牛に私は轢かれたのですか?」
男の話から察するに、朔を轢いた牛はこの男の牛のようだが、朔の質問に対して男は思いっきり顔をしかめた。
「…止めてよね。あんな牛の飼い主になった覚えはないよ。飼い主は別にいるよ」
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