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「犬飼くん!おーい、犬飼くん!」
事務所内に女性の声が響き渡る。
容姿端麗、才色兼備を自負する彼女であるが、暑さのためかだらしなく椅子にもたれかかるその姿は、少なからず彼女の魅力を奪っていた。
「はい、はい。何ですか?彩香さん」
犬飼と呼ばれた少年が、給湯室からまだあどけなさの残る顔を覗かせた。
「うむ。冷房を付けてくれ」
明善寺 彩香(みょうぜんじ あやか)は、犬飼少年の顔を確認すると、今の殺人的な暑さを快適な空間にすげ替えるための簡潔な指示を飛ばす。
しかし、地獄に垂れ下がった一本の糸を掴むが如き彼女の願望は、あまりにも無情な返答により打ちのめされた。
「もう既に付いてますよ彩香さん。因みに設定温度は、強風16度です」
無罪を求める被告に対し、冷徹に死刑を言い渡す裁判官のように、犬飼少年は淡々と言葉を紡ぐ。
それを聞き、机の上に置かれた温度計を確認した彩香は、すかさず反論の声をあげた。
「何!?しかし、室温は30度を超えてるぞ!?」
そんなはずはない。
今のこの状況を見てみろと言わんばかりの彩香の表情は、カエサルが死の間際、その腹心ブルータスに向けたであろう動揺の眼差しそのものであった。
「うーん。機械が古いのでしょうか?」
犬飼少年は、エアコンに目をやり首を傾げる。
しかし、そこには健気にも力一杯に灼熱の空間を過ごし易くするため、全霊をかけて仕事をこなすエアコンちゃんの幼気な姿があった。
それを目にした犬飼少年は、ため息を一つ吐くと何かを持ち出し、彩香に近づいて行くとそれを手渡した。
「はい、彩香さん。涼しくなるまで、これをお使い下さい」
犬飼少年の態度は実に紳士的で、その微笑みは天使級に優しいものであった。
しかし、手渡された物を確認した彩香の口から漏れたのは感謝の意ではなく疑問のそれだった。
「なんだこれは?」
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