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「ん?」
「敬介と私との間にあった過去を無かった事にしても、敬介は私を必要とする?」
咄嗟に答えに詰まった。
過去を無かった事にすると言う奈央の言葉に、臆病風が吹き荒れる。
「確かに、私は誰にも負けないほど勉強に励んできた。でも、社会にも出てもいない未熟な私を、どうしてそんなに評価するのか。
そこには過去が影響してるからだと言う疑念が拭えない」
「……」
「これは、冷静な判断だと思って問題ない? 私は沢谷専務の力になれる?」
俺は臆病風を追いやって、拳に力を込めた。
「過去を無かった事には出来ねぇよ。だからこそ、俺は知っている。おまえと言う人間をな。
決めた事は徹底的にやる根性の持ち主だって事も、物事を的確に判断できる能力も、先見の目があるってことも。
全てを知った上で俺にはおまえが必要だ」
断言するように力強く言った俺とは対対照的に、
「分かった」
奈央からの返事は静かなものだった。
ペンを取り書類の上を走らす奈央。
どちらに書き込んでいるのか分からない俺は、逃げるように奈央に背を向け、窓からの眼下を見下ろした。
まるで、この高いビルから地上へ突き落とされるような感覚だ。
それほどまでに、俺の心臓はバクバクと音を立て恐怖を感じている。
あまりにも不利とも思えるこの賭け。
何しろ、俺が夢見た再会とは程遠い。
ましてや、俺は見合いの席で──…
「敬介」
大袈裟なまでにビクッと肩を震わす。
足音にすら気付かなかった俺は、どれ程までに恐怖に包まれていたのか。
いつの間にか俺の背後に来ていたらしい奈央の声に、覚悟を込めて振り返った。
真っ直ぐに向かってくる迷いの無い瞳と、
「過去は関係なくお世話になります」
その言葉に、奈央が書き込んだ契約書が俺が望んだものとは別だと悟った俺は、項垂れるように肩を落とし顔を俯かせた。
……なのに。
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