徐ら、見境も無く欲しくなる

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フーコーはこう述べる。 太古の昔,狂気とは神の 叡知に至る道程であった,と。 例えば巫女だとか シャーマンは一種の狂気を 宿してる人々だよね? そうゆう特殊能力者に 対して人々の尊敬は寄せられた 全てに霊魂が宿るアミニズムの考えからもわかるよね 中世。 文明が発達するにつれて 狂気それ自体文明が生んだ ものとして認識される。 非理性が理性の対極として しか語られなくなるの。 それによって狂気とは 異端なものであるとゆう 考え方が生まれたんだ。 中世のパリ市民の楽しみと いったらキチガイを収監した ピヒートルの施療院をを見物することだった。 しかもそういった類いの 収監所は市民の側から 建設が要求されたんだよねー 犯罪者,キチガイから 例えば夫とせーくすすることを 拒む女性までも収監させられた。 ここに狂気の位置付けが はっきりと浮かび上がるよね 犯罪しかり。 つまり共同体の倫理に 従えないもの=狂気=犯罪 みたいな系譜ができちゃうわけ 市民が自ら家族判断によって 狂者を入院させるようになった 資本主義は恣意的な自由を 宗教の手綱が緩められることで 良心の呵責が生まれた
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