序章と一章の狭間

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 千桜の国には、忍び一人一人の記録の一切を乗せた帳簿がある。  どのような人間なのか。どのような武器が得意か。どの戦で、どのような活躍をしたか。どの名のある武将を討ち取ったか。個人のすべてがそこに記されている。 「このじじいの愛娘が、逝ったか。まあ、仕方あるまいて」  春野ヒカリはその記録書の、『如月アヤメ』の頁に、『死』の一文字が書き足されるのを見た。  書いた人間、国主長月ソウマは、その文字の上に手を置いた。  術が発動する。『死』の文字が持つ神秘の力が、書かれた墨に含まれる血を通じて、相手に送られた。  千桜秘伝忍術・殺紋。  さつもん、と読む。百年ほど前に三代前の国主、卯月テツマによって編み出された、瞬時に相手を殺す必殺の呪術。  またの名を、『呪い』。千桜ではそちらの名前で通っている。その術は入れ墨を必要とするため、戦いには使うことはできない。だが、千桜の忍びには皆、胸に入れ墨を彫られている。真っ黒な、水鳥をかたどった入れ墨だ。それは、本人の血を混ぜた墨で彫られているため、これと同じ墨を用いて術を使えば、どれだけ離れていても確実に作用する。この場合、入れ墨を彫られた本人だけに。  そうすることで、任務から戻れなかった忍者をすべて始末し、こちらの情報の一切が相手に伝わるのを最小限に防いできた。だからこそ今まで、戦う力の面で力不足だった千桜が滅ばず、それどころか、形勢的に千桜の有利であり続けていられる。  千桜の国の土馬城の最上階で、ヒカリはそうして如月アヤメが死んだことを悟った。 「これでもう、あの娘が生きて帰ることは二度とあるまい」 「…………」 「諸君、次の任務に備えることだ。下がれ」  如月アヤメは、国主長月ソウマの、義理の娘だ。千桜の桜並木の一つに捨てられていた、生まれたばかりのアヤメは彼に拾われ、忍びの精鋭に育て上げられた。忍びにとって心という不必要なものを捨てさせられ、戦いの技術も忍びの技術もすべて叩き込まれて、常に血飛沫とともにいた。  だから如月アヤメは、忍者として生きて、忍者として死んだのだ。  水無月カイら三人の忍びが先に出る。やや遅れて、ヒカリもその部屋を後にする。  すっと、頬を雫が伝った。 「……ごめんね」  後悔する。あの時、教えなんて無視して駆けよるだけの勇気を振り絞ればよかった。
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