新月

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「いつもご贔屓(ひいき)にありがとう御座います。またのお越しを従業員一同心よりお待ち致しております。」 何時ものように挨拶が交わされるのは、老舗旅館の『川かみ』と言う店。 高級料亭でもあり、礼儀だけは人一倍煩(うるさ)い。 しかし、その煩い中で小さな頃から育った閏葉(うるは)は、既に若女将と呼ばれてもおかしくない礼儀は身に付いていた。 「いやぁ…今回も快適だったよ。」 帰り際のお客様の声に、ニッコリと微笑みありがとう御座いますと告げると、横に置いていた手荷物を 靴を履き終わったタイミングで手渡した。 「あぁ、そうだ…閏葉さん?」 「はい、なんでしょうか?」 スッと、スーツの内ポケットから取り出された名刺には ”小金井出版”と書かれていて、名前付けは”専務”だった。 両の手で受け取ると、その名刺に素早く目を這わせ表情一つ変える事無く、閏葉は男を見上げる。 「うちで今、人が足りなくてね~良ければ秘書として人が見付かるまで来てはもらえないだろうか?」 ニッコリと微笑みながら伝えて来る人にニッコリと笑いを返すと 『お断り』を丁寧に返すための言葉を選んでいたがその前に 後ろから柔らかい声が掛かった。 「おやおや、吉田様うちの閏葉を引抜ですか?」 「いやいや、人が見付かるまでなんで…長居はさせませんよ」 母親の妙子が、ニコニコとしながら吉田と呼ばれる男を見ると、直ぐに頭を下げた。 「ふつつかな娘ですが、社会勉強の為お願い致します」 それに驚いたのは、閏葉だった。 「女将っ!急に決められてもっ…」 慌てて女将に食いつくが、キッと閏葉を見て。 「これ、閏葉…お客様の前で大声ははしたないと何度言えば解りますか?」 その言葉に反論さえさせてもらえず、すみませんと小さく謝った。
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