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「少し頑固な処は、母さんにそっくりだ」
遠い記憶を懐かしむように、瞳を細める父の姿に胸が締め付けられた。
父は何も知らないのだ。庚の母が音もなく消えたことも、単なる失踪としか思っていないのだろう。
切なげな父の言葉にごめんなさい、と口を突いて出る。
けれど、それを飲み込んで無理に笑みを張り付けた。
きっと、知らない方が幸せでいられる。
「……他には?」
「そうだなぁ……綺麗な黒髪かな。父さんのは少し茶気ってるから」
吐息のように笑みを吐き出して、小さく笑った。
細い指先で庚の髪を梳くと、さらさらと零れる。
くすぐったさに身を捩ると、斬り付けるような木枯らしが吹いた。
辺りを見回すと、だいぶ陽が落ちかけている。
「暗くなってきたし、そろそろ中に入ろうか。それに、お腹空いたろう?」
――こう見えても料理は上手いんだ。
自信ありげに胸を逸らして、勝ち誇ったように瞳を細める。
子供じみた父の態度が無性に可笑しかった。
まるで、親に下らないことを得意げに自慢する子供のようで。
それを訊いた親は決まって、どれだけ小さく些細なことでも大袈裟なほどに褒める。
あなたを世界で一番愛している、と。
耳元で囁く代わりに。
「なんでも作れる?」
「葵が知ってるものなら、なんでも」
「じゃあ…オムライスがいいな。今まで食べたことない、とびきりおいしいやつ」
零した笑みに言葉を乗せると俄然、父は張り切った。
早くに腕を捲り、待ち切れないかのように足早になる。
そんなに急がなくても何も置いていかないのに、と。
何処か焦った様子で、庚を急かす後ろ姿に声を掛けた。
けれど、それに従うことはなく。
いつの間にか立場が逆転していることに、可笑しくなって。
こんなに笑ったのは初めてのことではないのか、と頭の片隅でひとつ考える。
その合間にも急かす声は止まずに、苦笑を交えて玄関の扉を開ける。
その先にあるものはきっと、とてもとても幸福なものだろう。
今の状態でも、庚には過ぎたことだけれど。
それでも、そう願わずにはいられないのだ。
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