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扉を潜って薄暗い室内に足を踏み入れる。
明かりを付けると、今朝家を出た時と何ら変わりない景色がそこにあった。
そして――幽かに香る彼の残り香。
それに気づかぬ振りをして、漂う空気を押し退けた。
背後から着いてくる足音に笑みを零したままソファに腰を下ろす。
「葵は座って待ってて。いま作るから」
それだけ言い残すと、父は足早に向こう側へ消えた。
姿が目の前から消えた途端、冷えた胃から込み上げるのは緊張の所為か。
先程まで、とても気分が良かった筈なのに。
時間が経つにつれて、曖昧になっていくようにも思えた。
嬉しいと思う反面、今の状況が夢なのではないのかと、的外れな思考に再度笑みを湛える。
確かに、今の父は好きだ。もっと前からこの幸せを手に入れられていたら、とも思う。
けれど、そんな些細な想いとは裏腹にどうしても納得がいかなかった。
上手くは言えないが、何かがおかしいのだ。
当の本人は庚に対して、隠し事をしているようでもなし。
元より、父の態度からはそんな気配は伝わってこない。
心の底からの歓喜を欺瞞だと言える訳がなかった。
父は何年もそれを望んできたのだから。
それ故に、矛盾が生じる。
――良すぎるのだ、すべてが。
「――葵」
不意に呼ばれて、振り返る。
そこには途切れた壁から顔を出す、父の姿。
どうしたのだろう、と不思議に思っていると申し訳なさそうに口を開いた。
「指切っちゃって、絆創膏ある?」
笑いながら言う様子から、大した怪我ではないのだろう。
それに安堵しながら、救急箱を持っていく。
自分でやろうと伸ばした指先を、労わるように絡め取る。
余分な脂肪がない痩せた手は、控えめに見ても普通ではなかった。
きっと、この十五年間。
庚が想像するよりも、辛く苦しいことがあったのだろう。
けれど、それを父に言えば否定されるのは目に見えていた。
――自分よりお前の方だと。子を心底大切に想う、親になるのだ。
そこには僅かの躊躇いもなく、いっそ清々しいほどに。
それに余計、込み上げるものがあり暫く無言のまま立ち尽くした。
庚の様子に、心配そうな眼差しを向ける姿。
何か言葉を聞く前に我に返り、白い箱を開けた。
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