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「なんだと……貴様っ!」
「おやおや、何か不都合でしたか? ますます怪しいですねぇ」
「き、貴様、この鎧と紋章を見てもそんな事が言えるのかっ!?」
男が、自らの着ている鎧、その胸の部分を指差し叫ぶ。
そこには、鉤爪で三又の矛を掴んだククルツォルが、大きく羽を広げた立派な紋様が彫られていた。
……のだが。
「……はあ、生憎と世事には疎いもので……どういう意味か教えていただけますかね?」
「な、なんだと……?」
店主はまるっきり分かっていないようだった。
これには、さしもの男ですら、もはや怒りすら忘れ、茫然と立ち尽くすほか無かった。
店主が、決して男をからかっている訳ではなく、しごく大真面目に聞いているのがありありと分かったからだ。
……それがむしろ、男にはとっては到底信じられない事だったが故に。
「き、貴様……この街で、いったいどうやって過ごしてきたんだ?」
「どうって、そりゃあ……鏡を売って」
「……」
きっかり二分。
男が声を失っていた時間である。
「いやはや、これはどうやら、相当に申し訳ない事をしたらしいですね……あ、お詫びに紅茶でもいれましょう」
固まる男を尻目に、いそいそと紅茶の用意を始める店主。
「紅茶でいいですよね? なんならコーヒーでもお酒でも、なんでもご用意しますよ? 特にお酒はね、一時期やっかいな知り合いが五月蝿くてですね……」
「ぁ、ぃゃ……いや、紅茶でいい」
「そうですか、そりゃあ良かった。あなたはてっきりコーヒー党かと」
「……ふん、あんな物はただの泥水だ」
「コーヒーも美味しいんですよ?」
いいつつ、店主がカップを差し出し、対面の椅子を勧める。
ほわりと立ち上る湯気の向こうで、男が眉をしかめる。
「ああ、いや俺は、そんな時間は……」
「さあさ、とりあえず一休みして、水分補給は大事ですよ」
「いや、だから……」
「ささ、ほらほら」
普段ならば強くはねのけただろう誘いを断れず、勧められるがままにしてしまったのは、先ほどの動揺から完全に立ち直れていなかったからか。
それとも、歩き通しだった男の体が、無意識に休息と水分を求めたからか。
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