鏡と偽善と兄弟と

5/25
前へ
/82ページ
次へ
「なんだと……貴様っ!」 「おやおや、何か不都合でしたか? ますます怪しいですねぇ」 「き、貴様、この鎧と紋章を見てもそんな事が言えるのかっ!?」 男が、自らの着ている鎧、その胸の部分を指差し叫ぶ。 そこには、鉤爪で三又の矛を掴んだククルツォルが、大きく羽を広げた立派な紋様が彫られていた。 ……のだが。 「……はあ、生憎と世事には疎いもので……どういう意味か教えていただけますかね?」 「な、なんだと……?」 店主はまるっきり分かっていないようだった。 これには、さしもの男ですら、もはや怒りすら忘れ、茫然と立ち尽くすほか無かった。 店主が、決して男をからかっている訳ではなく、しごく大真面目に聞いているのがありありと分かったからだ。 ……それがむしろ、男にはとっては到底信じられない事だったが故に。 「き、貴様……この街で、いったいどうやって過ごしてきたんだ?」 「どうって、そりゃあ……鏡を売って」 「……」 きっかり二分。 男が声を失っていた時間である。 「いやはや、これはどうやら、相当に申し訳ない事をしたらしいですね……あ、お詫びに紅茶でもいれましょう」 固まる男を尻目に、いそいそと紅茶の用意を始める店主。 「紅茶でいいですよね? なんならコーヒーでもお酒でも、なんでもご用意しますよ? 特にお酒はね、一時期やっかいな知り合いが五月蝿くてですね……」 「ぁ、ぃゃ……いや、紅茶でいい」 「そうですか、そりゃあ良かった。あなたはてっきりコーヒー党かと」 「……ふん、あんな物はただの泥水だ」 「コーヒーも美味しいんですよ?」 いいつつ、店主がカップを差し出し、対面の椅子を勧める。 ほわりと立ち上る湯気の向こうで、男が眉をしかめる。 「ああ、いや俺は、そんな時間は……」 「さあさ、とりあえず一休みして、水分補給は大事ですよ」 「いや、だから……」 「ささ、ほらほら」 普段ならば強くはねのけただろう誘いを断れず、勧められるがままにしてしまったのは、先ほどの動揺から完全に立ち直れていなかったからか。 それとも、歩き通しだった男の体が、無意識に休息と水分を求めたからか。
/82ページ

最初のコメントを投稿しよう!

107人が本棚に入れています
本棚に追加