一章・伝染ナルコレプシー『柳沢鳴子の物語』

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「ヴァンフィールとやらの平和はどうでもいいから俺を守れよな。それに少なくとも厳しくはねぇよ。基本的にうちの家族はお前に甘過ぎるんだ」  その端整な顔立ちの所為かお陰か、テンコは柳田家のマスコット的存在と化していた。  濡れた黒絹のような光沢を放つ髪の毛は今日も母さんに弄られたのだろう。二つの漆黒の房が肩に垂れ下がっている。  服装だってそうだ。  ふわふわのレースが施されたノースリーブの真っ白いワンピースは、テンコを溺愛している父さんが購入してきたものだった。  それ一着で俺の小遣い二ヵ月分だというのだから実の息子としては面白くなかった。 「舐めるなよ小僧。ネトゲ廃人の朝は早い。狩場が空くからな」 「早いというか、夕方に起きて昼前に寝る生活だろうが」 「メンテナンスの際には緻密なスケジュールの行使を要求される。食糧の調達をしなければならないし、アップデートで追加されるコンテンツの情報も収集する必要がある」 「馬鹿だな」 「イズミはそうやって文句ばかりを言う」 「名前じゃなくて名字で呼びなさいって言ってるでしょ?」  柳田イズミ――それが俺の名前だ。女の子が生まれてくると信じてやまなかった父親が、この名前を事前に用意していたのだという。  結果として男児が生まれたのだが、中性的な名前だから問題はないだろうと判断したそうだ。  個人的にはもっと渋い名前が良かったし、何よりも下の名前で呼ばれるとどうしたってユウキを想起してしまう。 「でも柳田家の中で柳田なんて呼んだら皆が反応して駆けつけてくるだろうが。それはちょっと恐ろしいぞ……」  テンコは目を瞑りながら鼻に皺を寄せる。  彼女は当初、感情を表に出す人間ではなく、無機質な表情で唇を動かす様は、機械というよりはその完璧な造形も相まって人形のようなイメージを抱かせたのを今でも覚えている。  そんなテンコを我が家に招き入れて来月で二年になる。  それだけの歳月を共に過ごしてきた。テンコが変わっていく様子を観察してきたからこそ、彼女の間抜け面が愛おしい。  ついつい相好を崩してしまった俺は、首を左右に振ってその顔をリセットする。  どうにも俺はポーカーフェイスとは程遠い男のようだ。 「柳田家の人たちはそこまで苗字に敏感じゃないけどな」
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