一章・伝染ナルコレプシー『柳沢鳴子の物語』

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1/  その噂が流れ始めたのは春先のことだったように思う。 「イヤ、本当に気味が悪いというか」  窓から射し込む斜陽を背景に後輩の鮫島が大袈裟なジェスチャーを交えて話す様子を、俺は部室の端に設置された机から見守っていた。  我が部の部長の悪趣味と悪癖が原因で、文芸部の部室には奇怪な体験をした生徒が訪れてはその体験談を語っていく。  鮫島那月もそのひとりだった。  何でも、鏡の世界に迷い込んだのだという。 「却下」  鮫島の話をシャットアウトするように口を挟んだ部長――遠野は退屈そうに、あるいは呆れたように嘆息を吐きだしてから追い打ちを掛ける。 「鮫島の取り柄なんてその巻き込まれ型の主人公体質でしかないのに、何よその話は。古いの。陳腐なの。つまらないにも程がある。退屈なのは鮫島の顔だけで充分」  鮫島が肩を落としたのは言うまでもない。  そんな哀れな後輩クンに優しく微笑んでみせれば、彼はしかめっ面を返してくるのだから可愛くない。  それにしてもこの光景を見るのはこれで何度目だろうか。  確か一昨日もこのように罵倒されていたような気がする。  それなのに懲りることなく本日も部室の戸を叩いた鮫島は、もしかすると特殊な性癖の持ち主なのかもしれない。  以後彼との交流を改めるべきか否か悩んでいると、遠野が俺を睨んでいた。 「柳田は何かないの?」  切れ長の双眸を俺に据えて矛先を向けてくる。  一目で不機嫌だとわかる顔付きに肝を冷やしながらも、生憎と俺には鮫島のような特異な能力は備わっていないので、古くて、陳腐でつまならない話題さえも持ち合わせていないわけで。  そもそも年がら年中怪奇現象に遭遇する鮫島が異常なのであって、俺は至極真っ当な男子高校生なので早々に日常から足を踏み外したりはしないのだ。 「そういえばこの前」  とはいえ。  何もないと言ってしまえる程、俺の度胸は据わっていなかった。  伸びてきた前髪を弄りながらとりあえず口を開いてみる。  淡い夕日を背負った遠野がソファの背もたれから背中を浮かせた。どうやら掴みは成功したようだ。俺は続ける。 「三日月堂のかぼちゃプリンを買えたんだけどさ」 「もらってないけど? ちなみに! 私は水曜日がスイーツの日だから覚えておいてね」 「ただのダジャレじゃねーか」
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