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この集落を訪れるまでなにをしていたのか、菻は話そうとしない。
そういう話題を振られると、困ったようにほほ笑む。
だから誰もそれ以上聞くことができなかった。
「今日は、なにをして欲しいの」
菻が言う。
少年は赤子の頭に手を乗せたまま、少し考える素振りを見せた。
菻の顔の右半分は、浅葱色の布が覆っている。
昔ひどい火傷を負ったらしく、誰にも見せたがらない。
「菻の、昔の話を」
ちょっと黙り込んでから、菻は笑った。
良いよと答えた風に見えた。
菻は最近になってようやく自分の話をするようになった。
誰にでもするわけではない。
少年が毎日のように訪れては赤子の相手をしてくれるので、そのお礼として話してくれるようだった。
誰にも言わないで欲しいと念を押して、話すのだ。
二人だけの秘密のような気がして、なんとなく嬉しかった。
少年は菻のことが好きだった。
話をしている時の菻の表情や振る舞いは、どこか浮世離れしていた。
遠い目をして、懐かしむように話す。
どうしてそんな顔をするのか、少年にはわからない。
「漢民族を中心として、三国が鼎立した。魏(ギ)と、呉(ゴ)、蜀(ショク)。魏と蜀に関しては馴染み深いわよね」
少年は肯く。
実際に統治されることはなかったが、山中の集落にまでその様相が伝わるほど、魏と蜀は激しい戦を繰り返していた。
この場所は蜀の要であった漢中(カンチュウ)まで六百里(二四〇キロ)ある。
「十年前、三国の均衡は崩れた。蜀漢が滅びたの。滅びる時、私はひとりの将軍の背中を追っていた。姜維(キョウイ)伯約(ハクヤク)。蜀漢の大将軍で、最後の英雄」
話し始めると、菻は表情を暗くする。
悼んでいるのか。
悲しんでいるのか。
聞かせる者の心を動かすなにか。
少年は、そこに惹かれていた。
「私は、その背中を見つめてきた。どんな思いで戦って、どんな思いで生き抜いたか、一日も忘れたことはないの。十年前のこと。今でも、昨日のことのように、この右目は憶えている」
右目は、浅葱色の布に覆われていて見えない。
左目も、どこを見ているかわからなくなっていた。
十年前。
蜀漢の地で菻が見たものは、なんだったのか。
菻は、赤子に意識を傾けながら、語り始めた。
すべての始まりと、終わりを。
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