その目はなにを見る

3/3
前へ
/321ページ
次へ
この集落を訪れるまでなにをしていたのか、菻は話そうとしない。 そういう話題を振られると、困ったようにほほ笑む。 だから誰もそれ以上聞くことができなかった。 「今日は、なにをして欲しいの」 菻が言う。 少年は赤子の頭に手を乗せたまま、少し考える素振りを見せた。 菻の顔の右半分は、浅葱色の布が覆っている。 昔ひどい火傷を負ったらしく、誰にも見せたがらない。 「菻の、昔の話を」 ちょっと黙り込んでから、菻は笑った。 良いよと答えた風に見えた。 菻は最近になってようやく自分の話をするようになった。 誰にでもするわけではない。 少年が毎日のように訪れては赤子の相手をしてくれるので、そのお礼として話してくれるようだった。 誰にも言わないで欲しいと念を押して、話すのだ。 二人だけの秘密のような気がして、なんとなく嬉しかった。 少年は菻のことが好きだった。 話をしている時の菻の表情や振る舞いは、どこか浮世離れしていた。 遠い目をして、懐かしむように話す。 どうしてそんな顔をするのか、少年にはわからない。 「漢民族を中心として、三国が鼎立した。魏(ギ)と、呉(ゴ)、蜀(ショク)。魏と蜀に関しては馴染み深いわよね」 少年は肯く。 実際に統治されることはなかったが、山中の集落にまでその様相が伝わるほど、魏と蜀は激しい戦を繰り返していた。 この場所は蜀の要であった漢中(カンチュウ)まで六百里(二四〇キロ)ある。 「十年前、三国の均衡は崩れた。蜀漢が滅びたの。滅びる時、私はひとりの将軍の背中を追っていた。姜維(キョウイ)伯約(ハクヤク)。蜀漢の大将軍で、最後の英雄」 話し始めると、菻は表情を暗くする。 悼んでいるのか。 悲しんでいるのか。 聞かせる者の心を動かすなにか。 少年は、そこに惹かれていた。 「私は、その背中を見つめてきた。どんな思いで戦って、どんな思いで生き抜いたか、一日も忘れたことはないの。十年前のこと。今でも、昨日のことのように、この右目は憶えている」 右目は、浅葱色の布に覆われていて見えない。 左目も、どこを見ているかわからなくなっていた。 十年前。 蜀漢の地で菻が見たものは、なんだったのか。 菻は、赤子に意識を傾けながら、語り始めた。 すべての始まりと、終わりを。
/321ページ

最初のコメントを投稿しよう!

213人が本棚に入れています
本棚に追加