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鍾会は多忙に明け暮れていた。
寝る間も惜しんで計画に尽力していたのである。
都にいた頃とは人の数も違えばやっている事務も違う。
労力は思っていた以上に必要だった。
目の前に平積みされている書簡の処理も、以前ならすぐに終わらせることができた量であっても、その倍近い時間がかかってしまう。
その筋の知識人を探そうとして日が暮れるということもあった。
都にいれば人や知識が自ずと集まり、机に向かっているだけであらゆる事案が処理できた。
暮れなずむ街を横目で見やり、仕事の半分も終わっていないことに息を吐いた。
それもすべて官僚達を閉じ込めたせいなのだが、頭を抱えたくなる量である。
夜通し捌いて、明日の朝に魏軍と蜀軍に伝令を行き渡らせる。
正午には巴蜀、フ、広漢(コウカン)の兵を順次南鄭(ナンテイ-漢中(カンチュウ)郡の要所)に向け進軍させ、一軍には渭水(イスイ)を下るための舟を用意させる。
それから姜維の率いる蜀軍と長安(チョウアン)で合流し、渭水を下って洛陽(ラクヨウ)を目指す。
長安から孟津(モウシン)まで五日で辿り着ける計算だった。
その迅速な行軍のためにも、成都で済ませておく事務は山ほどあった。
北伐に必要不可欠な兵糧をはじめとする補給物資は南鄭、フ、成都から構成される補給線によって得られる。
鍾会が手掛けているのはそれを円滑に執り行うための制度だった。
姜維の助言以外は親愛している部下だけを要職に就けたので、その部下の進言も寛大に受け入れている。
そうすることで団結力を高められるだろうし、より良い主従関係が構築されることだろう。
つい先ほども帳下督(チョウカトク-本営の警備長)の丘建(キュウケン)という子飼いの将が幽閉されている胡烈(コレツ)の食糧配給について嘆願してきたので、制限をつけて許可した。
丘建はもともと胡烈の配下であり、胡烈の不遇を嘆いたのだろう。
鍾会としても、幽閉した者達に不満をためこまれたくない。
鍾会があえて彼らを生かしたのは、後々利用できると考えていたからだった。
丘建が嘆願しなくとも、食糧や衣服の配給くらいは許してやるつもりだった。
たった三ヶ月。
それだけの間辛抱してもらう。
司馬昭が率いる魏を討てば呉(ゴ)も恐れおののいて靡いてくる。
自分の率いる新生蜀漢が都を闊歩(カッポ)している時、幽閉されている者達も考えを改めるに違いない。
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