7/12
前へ
/321ページ
次へ
鍾会は多忙に明け暮れていた。 寝る間も惜しんで計画に尽力していたのである。 都にいた頃とは人の数も違えばやっている事務も違う。 労力は思っていた以上に必要だった。 目の前に平積みされている書簡の処理も、以前ならすぐに終わらせることができた量であっても、その倍近い時間がかかってしまう。 その筋の知識人を探そうとして日が暮れるということもあった。 都にいれば人や知識が自ずと集まり、机に向かっているだけであらゆる事案が処理できた。 暮れなずむ街を横目で見やり、仕事の半分も終わっていないことに息を吐いた。 それもすべて官僚達を閉じ込めたせいなのだが、頭を抱えたくなる量である。 夜通し捌いて、明日の朝に魏軍と蜀軍に伝令を行き渡らせる。 正午には巴蜀、フ、広漢(コウカン)の兵を順次南鄭(ナンテイ-漢中(カンチュウ)郡の要所)に向け進軍させ、一軍には渭水(イスイ)を下るための舟を用意させる。 それから姜維の率いる蜀軍と長安(チョウアン)で合流し、渭水を下って洛陽(ラクヨウ)を目指す。 長安から孟津(モウシン)まで五日で辿り着ける計算だった。 その迅速な行軍のためにも、成都で済ませておく事務は山ほどあった。 北伐に必要不可欠な兵糧をはじめとする補給物資は南鄭、フ、成都から構成される補給線によって得られる。 鍾会が手掛けているのはそれを円滑に執り行うための制度だった。 姜維の助言以外は親愛している部下だけを要職に就けたので、その部下の進言も寛大に受け入れている。 そうすることで団結力を高められるだろうし、より良い主従関係が構築されることだろう。 つい先ほども帳下督(チョウカトク-本営の警備長)の丘建(キュウケン)という子飼いの将が幽閉されている胡烈(コレツ)の食糧配給について嘆願してきたので、制限をつけて許可した。 丘建はもともと胡烈の配下であり、胡烈の不遇を嘆いたのだろう。 鍾会としても、幽閉した者達に不満をためこまれたくない。 鍾会があえて彼らを生かしたのは、後々利用できると考えていたからだった。 丘建が嘆願しなくとも、食糧や衣服の配給くらいは許してやるつもりだった。 たった三ヶ月。 それだけの間辛抱してもらう。 司馬昭が率いる魏を討てば呉(ゴ)も恐れおののいて靡いてくる。 自分の率いる新生蜀漢が都を闊歩(カッポ)している時、幽閉されている者達も考えを改めるに違いない。
/321ページ

最初のコメントを投稿しよう!

213人が本棚に入れています
本棚に追加