10/12
前へ
/321ページ
次へ
成都に入って二日目の夕方だった。 夕餉(ユウゲ)は済ませてある。 皆もまた寝る間を惜しんで政庁に集まっているようだが、鍾会は私室で事務をこなしていた。 人を呼んでいたのだ。 闇が街を包み込もうという頃になって、戸が叩かれた。 短く返事をすると、その者は音もなく入ってきて、筵の前に立った。 「やあ、将軍。座りたまえ」 鍾会が穏やかな口調で勧めると、姜維はじっとこちらを見つめたまま、少しの間動かなかった。 「どうした。座りたまえ」 二度目を聞いて、ようやく姜維は座した。 不思議に思ったが、とくに触れることもなく鍾会も同じ筵の上に座った。 二人はちょうど向き合うような形になった。 「将軍」 言いかけて、言葉を切った。 憮然としている姜維の頭巾が、前までのものと違った。成都に入る前からかわっていた。 いまだに見慣れない。ひどく、胸が締め付けられる。 その闇に染まった黒色。 何度も何度も見つめてきたもの。 そして、最後の最後まで外せなかったもの。 最初見た時はどうして姜維が、と思った。 白知秋が姜維の麾下だから、という話に気づくという問題ではなく、自分ですら手を出せなかったものを身につけている姜維に、猛烈な嫉妬心がわいてきたのである。 触れようとしただけで、昏睡状態であっても、彼女は否定した。 目の前の男には許したのか。 考えると、憤りを我慢できなくて、でも切なくて、結局なにもすることができなかった。 この男は最初に出会った時からまったく表情が変わっていない。 眉を上げることもなく、頬を引きつらせることもない。 こちらが笑うと同じように笑い、こちらが訝(イブカ)しむと同じく訝しむ。 まるで鏡合わせだと思っていた。 それが壊れたのは、魏の将を皆殺しにしろと進言した時か。 あの果物を潰したようなひしゃげた笑みは、ちょっと今の真面目面の姜維からは想像できない。 むしろ、夢だったのではないか。 姜維は変わらず真面目で誠実な勇壮の士にすぎないのではないか。 しかし気を抜くとあの笑みが甦ってきそうで、恐い。 人間のそれではなかったのだ。
/321ページ

最初のコメントを投稿しよう!

213人が本棚に入れています
本棚に追加