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成都に入って二日目の夕方だった。
夕餉(ユウゲ)は済ませてある。
皆もまた寝る間を惜しんで政庁に集まっているようだが、鍾会は私室で事務をこなしていた。
人を呼んでいたのだ。
闇が街を包み込もうという頃になって、戸が叩かれた。
短く返事をすると、その者は音もなく入ってきて、筵の前に立った。
「やあ、将軍。座りたまえ」
鍾会が穏やかな口調で勧めると、姜維はじっとこちらを見つめたまま、少しの間動かなかった。
「どうした。座りたまえ」
二度目を聞いて、ようやく姜維は座した。
不思議に思ったが、とくに触れることもなく鍾会も同じ筵の上に座った。
二人はちょうど向き合うような形になった。
「将軍」
言いかけて、言葉を切った。
憮然としている姜維の頭巾が、前までのものと違った。成都に入る前からかわっていた。
いまだに見慣れない。ひどく、胸が締め付けられる。
その闇に染まった黒色。
何度も何度も見つめてきたもの。
そして、最後の最後まで外せなかったもの。
最初見た時はどうして姜維が、と思った。
白知秋が姜維の麾下だから、という話に気づくという問題ではなく、自分ですら手を出せなかったものを身につけている姜維に、猛烈な嫉妬心がわいてきたのである。
触れようとしただけで、昏睡状態であっても、彼女は否定した。
目の前の男には許したのか。
考えると、憤りを我慢できなくて、でも切なくて、結局なにもすることができなかった。
この男は最初に出会った時からまったく表情が変わっていない。
眉を上げることもなく、頬を引きつらせることもない。
こちらが笑うと同じように笑い、こちらが訝(イブカ)しむと同じく訝しむ。
まるで鏡合わせだと思っていた。
それが壊れたのは、魏の将を皆殺しにしろと進言した時か。
あの果物を潰したようなひしゃげた笑みは、ちょっと今の真面目面の姜維からは想像できない。
むしろ、夢だったのではないか。
姜維は変わらず真面目で誠実な勇壮の士にすぎないのではないか。
しかし気を抜くとあの笑みが甦ってきそうで、恐い。
人間のそれではなかったのだ。
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