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軽く咳払いをして、鍾会は仕切り直した。
「将軍。予定通り、明日の正午、私自ら剣と、鎧の授与を行なう。それが済み次第、すぐに兵をまとめて北進せよ。巴蜀にある軍も将軍に従って動く手筈になっている。南鄭に入って漢中を抑え、司馬昭及び先遣隊の賈充(カジュウ)を漢中の地で屠り、そのまま斜谷(ヤコク)へ出撃し、長安までの道を征圧せよ。それに私の軍は続き、長安からは陸路と水路に別れて進軍する。そうなればもう都はこの手に落ちたも同然だね」
確認するように告げた。
姜維はただ押し黙って肯くだけである。
それが篝火の朱(アカ)と混じって異様な雰囲気を醸し出していた。
不安が拭えたわけではない。
この期に及んで姜維が自分を斬り捨てる可能性がない、とは思っていない。
しかし与えられるものはすべて与えてきた。
軍も、地位も、名誉も、信頼も、なにもかも与えてきたではないか。
失われた国すらも与えてやると約束し、着実に蜀漢は復活しようとしている。
鍾会はもうこれ以上姜維に尽くしてやれる気がしなかった。
まだ不足だというなら、その不足をぜひ教えて欲しい。
「兵の調練はどうなっているかね」
「上々ですよ。われらの駿足は風にも勝ります」
「頼もしい。ここからは時間との勝負だ。そして三国一の駿足精強な軍は将軍の軍だろう。成果を楽しみにしておこう」
なにかが変わった、気がする。
そのなにかは説明できない。
白知秋の雰囲気が変わったものより、ほんのわずかな変化だ。
口調でもなく、仕草でもない。
あえて言うなら、目付き、いや、目の奥の光だ。
鉱石のなかにくすぶる礫(ツブテ)が、光に翳(カザ)した時に色を濁す。
そんな小さな違和感。
浅葱色を捨てた姜維は、不穏な気配を滲み出しているようだった。
これから国家を立て直す気概に満ちているのかもしれない。
それ以上のことが、鍾会には思いつかなかった。
ここまできて自分を殺したところでなににもならないというのは、姜維もわかっているはずだ。
わかっているからこそ、暗殺の絶好の機会である今も大人しくしているのだ。
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