8/19
前へ
/321ページ
次へ
風が吹いた。 湿った風だった。 鼻をつくような生臭い風。 どこからか腥風(セイフウ)が吹き荒れている。 なにかと思って辺りを見回した。 その時、星が見えた。 泣いている。 誰が泣いているのかと思った。 鍾会だった。 彼は声もなく、目を伏せて、静かに涙を流していた。 それが星のまたたきになって、頬の辺りで消えていた。 「そうか。もう、わかってくれる人は、いないのか」 鍾会のか細い声が耳に入った。 野獣に過ぎないと思っていた男は、口の端を軽く上げて、静かに笑っていた。 諦念であり、追悼。 悟ったような表情と声色だった。 白知秋のことだとすぐにわかった。 だが、どう反応して良いのかわからなくなっていた。 憎しみを抱くには、あまりにも今の鍾会の姿は寂し過ぎる。 かといって許す気にもならない。 言葉を失ったかのごとく、押し黙ることしかできなかった。 鍾会が泣いているのを見た人はどれだけいることだろう。 今も背を向けているから、親衛達にはわからない。 もしかしたら世界で自分だけなのではないかと姜維は思った。 そう思わせる気高さが以前の鍾会にはあったのだ。 弱くなった。 狼から人の子になった。 だがそれはけっして悪いことではない。 自分も同じようなものだと、姜維は理解していた。 鍾会も姜維も、ひとりの娘によって人の子に戻ることができたのだ。 人の子になるというのも、悪い気分ではない。 おそらく鍾会も悪い気分ではないはずだ。 泣きながら笑うということも、人の子になればできるのだから。
/321ページ

最初のコメントを投稿しよう!

213人が本棚に入れています
本棚に追加