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すっと息を吸う音が聞こえた。 鍾会は瞼(マブタ)を上げ、姜維の方に向き直った。 「鎧と剣、印綬、旗を渡す。これが大将の証だ。道を遮るすべてを蹴散らせ」 「御意に」 手を合わせ、頭を下げた。 傍にいた麾下や親衛の者が喊声(カンセイ)をあげた。 新たな時代を切り開く二人の英雄を賛美するかのように、腕を振り上げ、大きな声をあげて祝福した。 鍾会の親衛のひとりが鎧と剣を、もうひとりが旗を、残りのひとりが印綬を持ってきた。 鍾会は杖を預け、よろめく足取りで剣を手に取り、姜維へ突き出した。 「受け取ってくれ。私の剣となり、都を倶(トモ)に戴こうではないか」 姜維はじっと突き出された剣を見つめた。 これを抜き放ち、返す刀でその喉元を切り裂けば、忌々しい仇はこの世から消え失せる。 今、ここで剣を抜き放ちさえすれば。 迷いがあった。 いつ殺すのか、ということではない。 この男を殺してしまって良いのかと、一瞬だけだが、思ってしまったのだ。 横顔が寂しげだった。 国家と娘という命にも代えがたいものを奪った仇敵なのに、腸が煮えくり返りそうなほど憤った相手なのに、今、そこにいる男を殺そうという気が起きなかった。 鍾会は孤独で可哀想だと、彼女は言っていた。 そう言っていた意味が、ようやくわかった。 鍾会にはなにもないのだ。 守るべきものも、頼るべきものも、なにもない。 なにもないから、やっと手に入れた彼女を愛してしまった。 そして、それすら失ってしまった。 愛を知って、今まで隠し続けていた人間の部分をさらけ出したのに、手元にはなにもない。 そんな男を斬り捨てて、自分のなにが満たされるのだろうと姜維は思った。 鍾会は生きている方が、辛いのだ。 殺す価値がなくなったのかもしれない。 己のなかにある不思議な感情を、姜維はそう判断した。 髭に白いものが混じっている鍾会は、ただ可哀想だった。
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