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悲鳴が聞こえる。 そう遠くない場所だ。 旧帝劉禅(リュウゼン)の居宅に、董厥(トウケツ)ら文官は集められていた。 成都の情勢はすさまじいことになっている。 鍾会の手を離れた魏兵が暴れ回っているのだ。 兵も民も関係なく、皆殺しにしている。 金目のものは奪われ、畠(ハタケ)は踏みにじられた。 魏兵にとって成都の価値などこれっぽっちもない。 奪えるだけ奪え、壊せるだけ壊せ、という掛け声がここまで聞こえていた。 劉禅は何人かの寵臣に囲まれ、震えている。 その周りを囲んでいる者達も劉禅を守ろうというのではなく、ただ怯えているだけだった。 門の外では蜀軍の精鋭達が魏兵を跳ね返している。 いくら敗戦国の将兵とはいえ、賊徒と化した兵を相手に遅れはとっていなかった。 この場所にいる限り貧弱な文官達の安全も確保できる。 だから、董厥らはこの場所に集められた。 董厥は劉禅を囲む者達の輪に加わらず、少し離れた場所で座していた。 同じ筵(ムシロ)の上で、背中を丸めた廖化が火に薪を焼(ク)べていた。 ひい、と声を洩らす臆病な者達を尻目に、董厥は皺枯れた手を擦り合わせる。 寒いというわけではなく、手が自然と動いていた。 「老けましたな」 「お互いに」 廖化はしんみりと返事をする。 喧騒は聞こえているのだが、二人の間には不思議な静けさが漂っていた。 急に廖化は咳き込んだ。 口に片手を被せ、何度も何度も咳をする。 その手を離し、彼はじっと掌を見つめた。 それから、その手を腰の辺りでごしごしと拭く。 失礼と一言、投げかけられる。 「もう、剣を振るわれないので」 「わしにはもう無理です。重くてかないません。それは、若い者がやってくれます」 「現役を退く、ということですかな」 「ええ」 声は沈んでいた。 再び拾い上げることができないほど、その返事は暗い海の底へ沈んでいった。 思えば、自分よりも一回りも年寄りの廖化とまともに会話をしたことが、あっただろうか。 宿将のひとりで、蜀の将軍といえば姜維や張翼と並んで廖化の名前が必ず挙げられたものだった。 そんな、自分とはまるで違う世界で生きてきた男が、目の前にいる。 言葉を交わしている。 しかし、小さかった。 自分と違うところを見つけるのが、難しかった。
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